劉表の子として、この世に生を受けた劉琮。父親の劉表は耳にしたことがあるけれども、劉琮のことはよく知らないという読者も多いでしょう。ここでは、劉琮を取り巻く環境と「荊州」という地をテーゼに紹介していきます。
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劉琮のバックボーン
まず、父親「劉表」には三男一女がいました。
長男が劉琦でその下が劉琮で異母弟にあたります。長男が自分の顔とそっくりであったことから、父・ 劉表は劉琦を可愛がります。
ところが次男の劉琮は、蔡夫人の姪とゴールイン。蔡夫人が長男・劉琦の悪口ばかり言っていたので、劉琮も次第に劉琦から遠ざかっていきます。父・ 劉表は妻の蔡夫人とラブラブでしたから、表向きは長男・劉琦と距離をとるようになり、劉琦は孤立。
そして、蔡夫人の弟である「蔡瑁」は大臣ですから、劉家において蔡夫人が影響力を強めていくのは自然の流れでした。
幼くしてトップに立つ劉琦
西暦208年。父・ 劉表が病に倒れます。すると長男の劉琦が父に会おうと「江夏」から戻ってくるのです。大臣の蔡瑁は死に際に劉表が劉琦への遺言によって「荊州」の地を譲るのではないかと内心、焦ります。
そこで、同僚と画策して長男の劉琦を父親に会わせないよう取り計らうのです。自分の父が天国へ旅立とうとしているのに会えないとはと、劉琦は悲嘆に暮れます。ほどなく父・ 劉表は他界。親戚のおじさんである蔡瑁の手を借りて、次男の劉琮が「荊州牧(県知事クラス)」に就任します。
つまり、劉琮は周りの蔡瑁や蔡夫人の政治的戦略の道具にされたのです。劉琮は年端のいかない子供でしたから、実質的に荊州の実権は蔡瑁や蔡夫人が握ることと相成りました。
荊州への想い
荊州は東の呉や北の魏の中継地点であり、軍事的に重要なエリアでした。そして、父・ 劉表が必死に守ってきた場所でもあり、劉琮にとっても様々な思い出が残る大切な場所だったのです。
曹操が攻めてきた! そのとき劉琮は?
劉表が天に召されたのを機に曹操が南下。荊州へと攻め入ってきます。あの劉備は、兄・劉琦サイドについているため、援軍を呼びたくとも協力してくれるようには思えませんでした。
しかし、劉琮にとって荊州はメモリアルな場所。たとえ、相手が曹操であっても死守せねばならない覚悟でした。そして、部下にこう宣言します。
「今日ここに我らは曹操と決戦し、荊州の地を死守する!!」
しかし、親戚の蔡瑁はこう切り返します。
「相手は曹操。徒党を組んでもかないますまい。負ければ我らは反逆者として捕らわれてしまうでしょう」さらに蔡瑁は続けます。
「劉備軍が曹操軍に抵抗していますが、兵士の数からいってとても勝ち目はありません。それとも劉琮様は、劉備軍が勝つとお思いでしょうか?」
「いや、思わない」
と劉琮は返答。
曹操軍が襄陽に到着した段階で、ついに劉琮は投降を決意。
劉備は夏口から逃れ、劉琮は「青州刺史」に任ぜられ、曹操の配下となるのです。やがて、「諫議大夫」となり、劉琮は軍事で活躍することなります。こうして荊州は戦火にまみれることなく、曹操軍に平定されるのでした。
三国志ライター 上海くじらの独り言
劉琮は漢という朝廷サイドにありながら、生まれた年も亡くなった年も定かではありません。架空の人物ではないのに、漢のトップクラスにあって亡くなった年さえ分からないというのはレアです。
赤壁の戦いの後に劉備が漢中王と名乗るのに邪魔だから、密かに魏の国で暗殺された可能性もあります。父・劉表は有力者でしたから、諸葛孔明が劉琮の存在を気にしていたかもしれません。
実は曹操の配下となってから、劉琮の消息ははっきりしていないのです。赤壁の戦いのごたごたで命を落とした可能性もあります。また、曹操の計らいで名前を変えて戦場へと赴いていたかもしれません。
憶測にすぎませんが、歴史のミステリーを解明していくのは興味深いものです。
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