孫呉は孫権が皇帝になってから孫皓の時代まで、四代の皇帝が江東一帯を支配します。
孫呉最後の皇帝・孫晧は暴君として知られ、孫呉を滅亡へ追い込んでしまいますが、彼の前の皇帝・孫休はどうして孫晧を皇帝に選んだのでしょうか。今回は孫休が孫晧を皇帝に選んだ理由について紹介したいと思います。
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名君・孫休の実績とは?
孫休は二代皇帝・孫亮が皇帝の位から引きずり降ろされた後に皇帝として就任。彼は孫呉の政権を握って思い通りの政治を行っていた孫綝を殺害し、孫呉の政権を取り戻すことに成功します。
孫休は孫綝を殺害し、孫綝のせいで疲弊していた孫呉政権を回復させるため様々な政策を実施。まず孫綝は民衆を豊かにさせるため、農業と養蚕業を盛んにするため、税金を軽くする布令を出します。さらに孫休は民衆の教育に力を入れ、荒廃した人々の心を安定させる政策を実施。
孫呉は孫休の政策によって孫綝時代に疲弊した国力をちょっとずつ回復していくのでした。しかし孫休の政策は短期間で終わりを迎えてしまいます。どうして孫休の政策は短期間で終わりを迎えるのか。
それは孫休が短命であった事が原因です。孫休は30歳という若さで亡くなってしまい、孫呉の政治を運営したのは6年という短い期間でした。孫休の死後新しい皇帝に選ばれたのは、暴君として知られる孫晧が就任することになりますが、どうして孫休は孫晧を皇帝に選んだのでしょうか。
孫休は自分の息子を皇帝にしたかった!!
孫休は病にかかり喋れなくなってしまいます。孫休は自分の死後、新しい皇帝を自分の息子に継がせようと考えていました。喋れなくなった孫休は丞相・濮陽興を呼びつけて息子・孫わんを紹介し「濮陽興よ。私の死後私の息子・孫わんを皇帝にし、しっかりと彼を補佐してくれ」と遺言を託した後、亡くなってしまいます。
このように孫休は自分の息子を皇帝にしたかったのですが、彼の願いが叶うことはありませんでした。どうして孫休の願いは叶わなかったのでしょうか。
孫呉の政権が安定していなかったから
孫休は息子を皇帝へしようと考えていましたが、彼の死後孫休の息子が皇帝になることはありませんでした。孫休の息子が皇帝になれなかった理由は、孫呉政権が安定していなかったからです。
孫呉は孫権死後、孫亮が皇帝になりますが、諸葛恪や孫綝などが孫呉の政権を思い通りに動かしていた事と二人が政権を握っていた時代に魏軍との戦いで幾度か大敗北をしたせいで、孫呉政権が疲弊していました。
そのため孫休は皇帝になってから、孫呉の国力を回復させるため、農業政策の改革や民衆たちの教育に力を入れて、孫呉政権の国力回復を目指します。しかし孫休が短命であったため、孫呉の国力を回復することができなかったことは上記で紹介しました。
また孫休が亡くなった時、孫呉の領内で反乱がおきたり、蜀が滅亡したりと国内外が安定していない状態でした。これらの状況を打破するためには、孫休の息子で若年の孫わんが皇帝になったら無理だと考える臣下が多数いました。
政情が安定していない難しい状況を乗り切るために孫晧が選ばれた
濮陽興や張布は、孫わんが皇帝になっても若すぎるので、政情が安定してない状況を乗り切るのは難しいと考えます。そのため彼らは新しい皇帝に立派な人物を建てようと考えますが、誰を立てればいいのか困っていました。
そんな中、孫晧と親しい万彧は、彼らが困っている事を知ると二人へ「孫晧様は孫策様に匹敵するほどの気宇の大きさを持ち、学問にも励んでいる人物です。彼ならば、昨今の政情が安定してない難しい状況を乗り切ることができると思いますよ」と提案。
二人は万彧の提案を聞いて、孫わんを皇帝にするのを止めて、孫晧を皇帝へ推挙します。この結果、濮陽興と張布、万彧に推挙された孫晧が皇帝へ就任することになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫休は自らの死後、息子を皇帝にしたいと願って亡くなります。
しかし濮陽興たちは孫呉の国を安定にさせるため、孫休の息子を皇帝にしないで孫晧を皇帝へ押し上げますが、孫晧以外に適齢に達し、評判の高い人物はいなかったのでしょうか。孫晧には何人か兄弟がいましたが、孫晧の評価に匹敵するような人物たちはいませんでした。
そのため濮陽興たちは評判の高い孫晧を選んで、孫呉の国を安定させようと考えますが、この人選は大失敗に終わってしまうのはみなさんもご存知の事だと思います。
■参考文献 正史三国志呉書など
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