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二宮の変をまとめてみた「起因と原因編」

2019年7月28日


 

解煩督 呉

 

三国志の国の一つ・呉。

 

呉の孫権

 

この国は孫権(そんけん)が皇帝となって帝国を作り、魏と対抗していました。しかし孫権の晩年、国を二分するほどの大事件が発生。その事件とは、二宮の変と呼ばれる事件ですが、色々な事が絡み合って少し複雑です。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

そこで今回は、この二宮の変の原因を簡単にまとめてみたいと思います。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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二宮の変の始まり:嫉妬編

孫和

 

二宮の変のはじまりは嫉妬です。孫権は長男・孫登(そんとう
)
の死後、側室王氏を可愛がっていた事から、王氏との間にできた息子・孫和(そんか
)
も可愛がるようになります。王氏は孫権から可愛がられていましたが、彼女が可愛がられている事に「キーッッ!!」となって怒っている女性がいました。

 

嫉妬する孫魯班

 

その女性の名前は孫権の側室の一人・全公主です。どうして全公主は王氏に対して「キーッッ!!」となってしまったのか。それは孫権が王氏を皇后にしようとしてからです。全公主は王氏が皇后になることが気に食わず、孫権が病気にかかった時「帝が病気になった事を知って、王氏が笑っていたそうですよ」と王氏の悪口を伝えます

 

孫権に諫言する陸瑁

 

孫権は全公主から聞いたことを鵜呑みにし、王氏に悪口や蹴ったり叩いたりなど酷いDVを行います。今なら裁判沙汰になって王氏の夫・孫権は、懲役何年の禁固刑を受けるところですが、皇帝・孫権を罰する法律なんてありません。

 

王氏は孫権のDVに耐えられず、命を落としてしまいます。こうして全公主は王氏を蹴落とすことに成功。しかしここから孫呉最大の事件が始めることになります。

 

 

 

二宮の変の原因その1:皇太子と弟を同列に扱う

文学に秀でた孫和

 

二宮の変の原因その1は、皇太子と弟が同列に扱われるようになった事が原因です。孫和は王氏死後も孫権の皇太子であり続けましたが、王氏が全公主の策略で命を落とすと孫権からあまり可愛がられなくなります。

 

孫覇

 

孫権は孫和の代わりに可愛がり始めたのが、孫和の弟・孫覇です。孫権は孫覇を可愛がり、皇太子である孫和と同じ待遇を付与。この結果、孫呉には皇太子・孫和と孫覇が同列に扱われることになり、どちらが孫権の跡を継ぐのかわからない状況になってしまいます。

 

孫権に気に入られる孫覇

 

孫覇は孫和と同じ待遇を孫権から受け、自分が孫権から気に入られている事を感じると、孫和を追い落として自らが皇太子になれるかもと考え始めます。そして孫覇の側近達は主人の野望を煽り始めます。

 

孫権の後継者になりたい孫覇

 

その結果、孫覇は側近達から煽られて、皇太子・孫和を追い落とす為に行動を開始。孫和は自分が孫権から可愛がられていないことを感じ、「皇太子の座から下ろされてしまうのではないか」という不安を感じる毎日を過ごすことに。

 

こうして孫覇は孫和を追い落とすため、孫和の悪口を宮中で言いふらし始め、彼の周りには孫呉の重鎮・歩隲(ほしつ)らが集まり派閥を作り始めます。孫和は孫覇のように積極的な行動を起こさないで、不安を抱えたまま毎日を過ごしていましたが、彼の周りにも陸遜(りくそん)吾粲(ごさん
)
などが集まり自然と派閥を形成。

 

こうして孫呉の後継者争いが勃発していくことになります。そして後継者争いに重臣たちが関与していくことになり、孫権の後継者争いは過熱し、呉を二分する争いにまで発展していくことになります。

 

 

二宮の変の原因その2:孫権が後継者争いを放置プレイしたこと

後継者争いで悩む孫権

 

二宮の変の原因その2は、孫権が孫和と孫覇の後継者争いを放置プレイしていた事です。孫権は孫和と孫覇が後継者争いを行い、各派閥に重臣達が関与し、孫呉を二分する争いに発展しても対策を打たないで、後継者争いを黙ってみているだけでした。

 

後継者争いを放置する孫権

 

孫権は後継者争いを数年間も放置プレイした後、孫覇の側近をすべて殺害し、孫覇にも自殺を命じます。そして孫権は孫和を皇太子の位から外して王の位へ降格。更に孫権は彼を支持していた吾粲・顧譚こたん
)
・陸遜を殺害し、皇太子を支持していた朱拠や屈晃を棒叩き100回の罰を与え、他にも皇太子支持をした人々へ罰を与えます。

 

痛い目にあう孫権

 

孫権は、こうして孫和・孫覇両方を罰し、彼らを支持した人々へ罰を与えた事で、二宮の変を終わらせるのでした。しかし孫権が後継者争いを早期解決を図らなかったため、孫呉の国力はこの二宮の変以降、弱体の一途をたどることになります。

   

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

二宮の変まとめ

1後宮での争いから始まる

2皇太子・孫和と孫覇が同列の扱いをする

 

この1・2つが二宮の変の主な原因です。

3孫権が孫和と孫覇の両者を罰することなく放置プレイ。

三つ目は二宮の変を早期解決を図らず黙ってみていたせいで、孫呉の力を減退させることの原因と孫権の罪を紹介しました。

 

■参考文献 正史三国志孫和伝・王夫人伝など

 

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呉の武将

 

 

 

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