三国志の国の一つ・呉。
この国は孫権が皇帝となって帝国を作り、魏と対抗していました。しかし孫権の晩年、国を二分するほどの大事件が発生。その事件とは、二宮の変と呼ばれる事件ですが、色々な事が絡み合って少し複雑です。
そこで今回は、この二宮の変の原因を簡単にまとめてみたいと思います。
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二宮の変の始まり:嫉妬編
二宮の変のはじまりは嫉妬です。孫権は長男・孫登の死後、側室王氏を可愛がっていた事から、王氏との間にできた息子・孫和も可愛がるようになります。王氏は孫権から可愛がられていましたが、彼女が可愛がられている事に「キーッッ!!」となって怒っている女性がいました。
その女性の名前は孫権の側室の一人・全公主です。どうして全公主は王氏に対して「キーッッ!!」となってしまったのか。それは孫権が王氏を皇后にしようとしてからです。全公主は王氏が皇后になることが気に食わず、孫権が病気にかかった時「帝が病気になった事を知って、王氏が笑っていたそうですよ」と王氏の悪口を伝えます
孫権は全公主から聞いたことを鵜呑みにし、王氏に悪口や蹴ったり叩いたりなど酷いDVを行います。今なら裁判沙汰になって王氏の夫・孫権は、懲役何年の禁固刑を受けるところですが、皇帝・孫権を罰する法律なんてありません。
王氏は孫権のDVに耐えられず、命を落としてしまいます。こうして全公主は王氏を蹴落とすことに成功。しかしここから孫呉最大の事件が始めることになります。
二宮の変の原因その1:皇太子と弟を同列に扱う
二宮の変の原因その1は、皇太子と弟が同列に扱われるようになった事が原因です。孫和は王氏死後も孫権の皇太子であり続けましたが、王氏が全公主の策略で命を落とすと孫権からあまり可愛がられなくなります。
孫権は孫和の代わりに可愛がり始めたのが、孫和の弟・孫覇です。孫権は孫覇を可愛がり、皇太子である孫和と同じ待遇を付与。この結果、孫呉には皇太子・孫和と孫覇が同列に扱われることになり、どちらが孫権の跡を継ぐのかわからない状況になってしまいます。
孫覇は孫和と同じ待遇を孫権から受け、自分が孫権から気に入られている事を感じると、孫和を追い落として自らが皇太子になれるかもと考え始めます。そして孫覇の側近達は主人の野望を煽り始めます。
その結果、孫覇は側近達から煽られて、皇太子・孫和を追い落とす為に行動を開始。孫和は自分が孫権から可愛がられていないことを感じ、「皇太子の座から下ろされてしまうのではないか」という不安を感じる毎日を過ごすことに。
こうして孫覇は孫和を追い落とすため、孫和の悪口を宮中で言いふらし始め、彼の周りには孫呉の重鎮・歩隲らが集まり派閥を作り始めます。孫和は孫覇のように積極的な行動を起こさないで、不安を抱えたまま毎日を過ごしていましたが、彼の周りにも陸遜や吾粲などが集まり自然と派閥を形成。
こうして孫呉の後継者争いが勃発していくことになります。そして後継者争いに重臣たちが関与していくことになり、孫権の後継者争いは過熱し、呉を二分する争いにまで発展していくことになります。
二宮の変の原因その2:孫権が後継者争いを放置プレイしたこと
二宮の変の原因その2は、孫権が孫和と孫覇の後継者争いを放置プレイしていた事です。孫権は孫和と孫覇が後継者争いを行い、各派閥に重臣達が関与し、孫呉を二分する争いに発展しても対策を打たないで、後継者争いを黙ってみているだけでした。
孫権は後継者争いを数年間も放置プレイした後、孫覇の側近をすべて殺害し、孫覇にも自殺を命じます。そして孫権は孫和を皇太子の位から外して王の位へ降格。更に孫権は彼を支持していた吾粲・顧譚・陸遜を殺害し、皇太子を支持していた朱拠や屈晃を棒叩き100回の罰を与え、他にも皇太子支持をした人々へ罰を与えます。
孫権は、こうして孫和・孫覇両方を罰し、彼らを支持した人々へ罰を与えた事で、二宮の変を終わらせるのでした。しかし孫権が後継者争いを早期解決を図らなかったため、孫呉の国力はこの二宮の変以降、弱体の一途をたどることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
二宮の変まとめ
1後宮での争いから始まる
2皇太子・孫和と孫覇が同列の扱いをする
この1・2つが二宮の変の主な原因です。
3孫権が孫和と孫覇の両者を罰することなく放置プレイ。
三つ目は二宮の変を早期解決を図らず黙ってみていたせいで、孫呉の力を減退させることの原因と孫権の罪を紹介しました。
■参考文献 正史三国志孫和伝・王夫人伝など
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