自分が元凶だと忘れる孫権の最高峰大失敗「二宮の変」わかりやすく解説




はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

宴が生き甲斐 孫権

 

呉の大黒柱孫権の晩年の失敗の中でも最高峰にあるのが二宮(にきゅう)の変です。

 

後継者争いで悩む孫権

 

しかし、三国志演義では(呉みてーな地味な国の内紛(ないふん)にページは割けねえよカットだカット)と断腸(だんちょう)の思いで割愛(かつあい)されているせいか、あまり知名度がないマイナーな出来事として、詳しくは知らない三国志ファンも多いでしょう。

 

そこで今回は初心者でも分かるレベルに、二宮の変を分かりやすく斬ってみます。




切っ掛けは孫登の死

孫登

 

孫権は、自分の後継者を早めに長男の孫登(そんとう)に決定していました。しかし、西暦241年に皇太子の孫登が33歳で病死します。

 

孫和

 

この時、孫登は当時、孫権が寵愛していた王夫人の子の孫和(そんか)を自分の代わりに後継者とするように孫権に遺言しました。哀しみに暮れる孫権ですが、孫登の遺言通りに、孫和を皇太子に指名します。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

これで済んでいれば二宮の変は起きなかったのですが、ここから孫権は不可解な行動をします。

 

関連記事:孫和とはどんな人?文武両道だけど最後はとっても悲惨な貴公子

関連記事:孫権の妃達は地味な上にあまり幸福ではなかったって本当?




孫和の異母弟の孫覇を魯王とする

孫権に気に入られる孫覇

 

孫和を皇太子に立てた後、孫権は孫和の異母弟の孫覇(そんは)魯王(ろおう)(ほう)じます。そして、孫和も孫覇も平等に扱いだしたのです。

 

孫権の後継者になりたい孫覇

 

これにより、呉の家臣の中に、もしかして孫覇様が後継者になるのではないか?と考えるものが出て、孫覇の派閥(魯王派)が誕生。皇太子は孫和であるべきとする孫和派(南宮派(なんぐうは))との間でいざこざが発生しました。

 

呉の武将

 

孫権が2つの宮殿を建て派閥を分離 二宮の変勃発

洛陽城

 

孫権は、孫和派と孫覇派の対立を知ると、孫覇にも孫和同様の宮殿を建て、2つの派閥を遠ざける措置を取ります。しかし、これは逆効果でした。

 

孫覇

 

遠ざけられた事で、孫和も孫覇も相手の考えが分らなくなり、取り巻きの派閥の考えに影響を受けるようになります。特に孫覇は焚きつけられて、孫和の廃嫡(はいちゃく)まで考えるようになり、呉は、二宮の派閥がお互いを讒言(ざんげん)する混乱状態に陥ったのです。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん04 哀

 

それもこれも、元はといえば、孫権が孫覇と孫和の扱いを平等にしてしまったせいで、孫覇派が勘違いをしたせいなのは明らかでした。まったく、あのアル中ヒゲダルマは本当にろくな事をしません。

 

関連記事:孫覇とはどんな人?側近に煽られて孫家を分裂させてしまった残念貴公子

関連記事:決して甘いだけではない皇帝・孫権の決断力に思わず惚れ惚れする!

 

丞相不在、孫魯班と王夫人の対立も火に油を注ぐ

陸遜

 

二宮の変の最中、243年、19年間も丞相を務めた顧雍(こよう)が76歳で死去します。後任の丞相は陸遜(りくそん)と決まりますが、陸遜は荊州統治の任を解かれないので建業に入れず、二宮の変を強力なリーダーシップで調停する人物は不在となりました。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

おまけに、孫和派と孫覇派の戦いには、孫和の母王夫人(おうふじん)と、孫権の娘で孫覇を推す、孫魯班(そんろはん)の女の対決も絡んでいます。孫権の後継者をどちらが継ぐかで、2つの派閥の生死は決まります。

 

後悔する孫権

 

何としても勝たねばならない状況で抗争は熾烈化、孫権は二人の対立に気づいて両派閥の往来を禁止しますが、すでに手遅れでした。

【次のページに続きます】




次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 疫病が流行った村
  2. 太鼓を鳴らす村人(防犯対策)
  3. 愛馬に乗り敵を粉砕する張遼
  4. 袁尚と対立する袁譚
  5. 正史三国志を執筆する陳寿
  6. 張飛と本多忠勝

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

“はじめての三国志公式LINEアカウント"

“二宮の変

“三国志データベース"

“三国志人物事典

3冊同時発売




PAGE TOP