自分が元凶だと忘れる孫権の最高峰大失敗「二宮の変」わかりやすく解説


 

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宴が生き甲斐 孫権

 

呉の大黒柱孫権の晩年の失敗の中でも最高峰にあるのが二宮(にきゅう)の変です。

 

後継者争いで悩む孫権

 

しかし、三国志演義では(呉みてーな地味な国の内紛(ないふん)にページは割けねえよカットだカット)と断腸(だんちょう)の思いで割愛(かつあい)されているせいか、あまり知名度がないマイナーな出来事として、詳しくは知らない三国志ファンも多いでしょう。

 

そこで今回は初心者でも分かるレベルに、二宮の変を分かりやすく斬ってみます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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切っ掛けは孫登の死

孫登

 

孫権は、自分の後継者を早めに長男の孫登(そんとう)に決定していました。しかし、西暦241年に皇太子の孫登が33歳で病死します。

 

孫和

 

この時、孫登は当時、孫権が寵愛していた王夫人の子の孫和(そんか)を自分の代わりに後継者とするように孫権に遺言しました。哀しみに暮れる孫権ですが、孫登の遺言通りに、孫和を皇太子に指名します。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

これで済んでいれば二宮の変は起きなかったのですが、ここから孫権は不可解な行動をします。

 

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孫和の異母弟の孫覇を魯王とする

孫権に気に入られる孫覇

 

孫和を皇太子に立てた後、孫権は孫和の異母弟の孫覇(そんは)(ろおう)(ほう)じます。そして、孫和も孫覇も平等に扱いだしたのです。

 

孫権の後継者になりたい孫覇

 

これにより、呉の家臣の中に、もしかして孫覇様が後継者になるのではないか?と考えるものが出て、孫覇の派閥(魯王派)が誕生。皇太子は孫和であるべきとする孫和派(南宮派(なんぐうは))との間でいざこざが発生しました。

 

 

孫権が2つの宮殿を建て派閥を分離 二宮の変勃発

洛陽城

 

孫権は、孫和派と孫覇派の対立を知ると、孫覇にも孫和同様の宮殿を建て、2つの派閥を遠ざける措置を取ります。しかし、これは逆効果でした。

 

孫覇

 

遠ざけられた事で、孫和も孫覇も相手の考えが分らなくなり、取り巻きの派閥の考えに影響を受けるようになります。特に孫覇は焚きつけられて、孫和の廃嫡(はいちゃく)まで考えるようになり、呉は、二宮の派閥がお互いを讒言(ざんげん)する混乱状態に陥ったのです。

 

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それもこれも、元はといえば、孫権が孫覇と孫和の扱いを平等にしてしまったせいで、孫覇派が勘違いをしたせいなのは明らかでした。まったく、あのアル中ヒゲダルマは本当にろくな事をしません。

 

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丞相不在、孫魯班と王夫人の対立も火に油を注ぐ

陸遜

 

二宮の変の最中、243年、19年間も丞相を務めた顧雍(こよう)が76歳で死去します。後任の丞相は陸遜(りくそん)と決まりますが、陸遜は荊州統治の任を解かれないので建業に入れず、二宮の変を強力なリーダーシップで調停する人物は不在となりました。

 

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

おまけに、孫和派と孫覇派の戦いには、孫和の母王夫人(おうふじん)と、孫権の娘で孫覇を推す、孫魯班(そんろはん)の女の対決も絡んでいます。孫権の後継者をどちらが継ぐかで、2つの派閥の生死は決まります。

 

後悔する孫権

 

何としても勝たねばならない状況で抗争は熾烈化、孫権は二人の対立に気づいて両派閥の往来を禁止しますが、すでに手遅れでした。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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