楊脩は曹操に仕えた政治家です。才能があったので曹操の息子の曹植の教育係にまで出世しています。
ところで楊脩はどのような性格の人物だったのでしょうか?
彼の関しての史料は少ないので、小説『三国志演義』と正史『三国志』で比較していこうと思います。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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小説『三国志演義』の楊脩の性格 自分大好きで身を滅ぼす
小説『三国志演義』の楊脩は自分大好きであり、人前で自分の才能を自慢する嫌な男として描かれています。代表的な話が2つあるので紹介します。
ある日庭を造った曹操は、何も言わずに門に「活」という字を書いて立ち去ります。部下は意味が分からないので通りかかった楊脩に尋ねたところ、「庭を広く造り直せと言っているのだろう」と答えます。
なぜ分かるのか部下が尋ねると、「門に活という字を入れてみろ。闊という字になるだろう」と言いました。納得した部下は庭を造り直しました。あとでこの話を聞いた曹操は楊脩を誉めましたが、自分の心を見られているのでは、と不気味な感覚を抱きます。
2つ目は鶏肋事件。鶏肋というのは鶏のあばら骨のことです。鶏肋はダシや飾りのためのものであり、食べるものではありません。
建安24年(219年)に曹操は劉備と漢中で戦いますが窮地に追い込まれます。その時の夕食に出されたのが鶏肋です。
曹操は食事をしながら「鶏肋は食べれない。だけど、味が付いているので捨てるにはもったいない。この戦は鶏肋と一緒だな・・・・・・進んでも勝ちは無いし、帰っても民からは笑われる。私はどうすればいいんだ」と考えました。
考え事をしていると夏侯惇が来て、「本日の軍中での合言葉は何にしますか?」と尋ねます。まだ考え事をしていた曹操は思わず「鶏肋」と呟きます。
イエスマンの夏侯惇は、「了解」と立ち去ります。さて、本日の合言葉を聞いた楊脩は「よし、みんな撤退だ!」と帰る準備を促します。
「それどういう意味ですか?」と夏侯惇。
「それはですね・・・・・・」とさっきの曹操と同じ事を解説する楊脩。
解説終了後に3人とも撤退準備開始。するとそこへ巡回に来た曹操が登場。撤退をしていると聞いて怒りが頂点に達します。しかも首謀者が楊脩と分かるとなおさら許せません。
曹操は軍律を乱した罪で即刻、楊脩を打ち首にしました。小説『三国志演義』の楊脩は、自分の才能におぼれて身を滅ぼすあわれな結末となっています。
正史『三国志』の楊脩 曹植の罪に連座
正史『三国志』の楊脩の性格は、小説『三国志演義』とは対照的です。謙虚であり、激務な仕事をこなしていたので曹操から気に入られていました。楊脩が命を落とすことになったのは、小説『三国志演義』にあるような軍律違反ではありません。
どうも曹植が関係していたと推測されているようです。曹操が漢中遠征に出かけて間もない、建安23年(218年)頃。
洛陽にいた曹植は、馬車で皇帝専用道路と門を使用しました。専門家はこれを「洛陽不敬事件」と言います。それを知った曹操は激怒して担当していた役人を処刑して、諸侯の罰則も強化します。
これ以降、曹操は曹植への愛情が失われました。なお、楊脩が処刑されたのはそれから間もなくとのこと。つまり、楊脩は曹植の教育係なので責任をとらされたのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が楊脩の性格についての記事でした。
楊脩が処刑された原因の1つに袁術の親族だったからという説があります。しかし、筆者はその説を信じていません。だとしたら、最初から曹植の教育係にされることはありませんし、曹操だって仕事を任せることもなかったと思います。
やはり、曹植の不敬行為の責任をとらされたと考えるのが妥当です。
※参考文献
・津田資久「曹魏至親諸王攷-『魏志』陳思王植伝の再検討を中心としてー」(『史朋』38 2005年)
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