三国志ファンの皆さんなら常識とも言える事実ですが、樊城の戦いで関羽はその生涯を終えます。その後、討ち取られた関羽の首は呉から魏に、そして魏で関羽は曹操によって葬儀が行われるのですが、どうして魏で、曹操によって関羽の葬儀が行われたのでしょうか?
蜀との軋轢を防ぐため、というのが最も多く言われる理由ですが、本当にそれだけなのでしょうか?
今回は関羽が討たれた直後から関羽の葬儀まで、そこにあった曹操の思惑など色々と考察してみたいと思います。
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呉に敗北した関羽のその後
樊城の戦いで、魏と呉の同盟体制に関羽は敗北します。関羽は捕縛されるものの、最終的に斬首になりした。
ここの経緯は少し別れていて、蜀記では孫権は関羽を部下に迎えようとするけれど部下に止められて諦めますが、正史の記述を見ていくとどうやら捕縛からすぐさま斬首になったようです。三国志演義ではこの後、関羽を討ったことに孫権は喜びますが、部下に「義兄弟の劉備が攻め込んできたらどうするのですか」と言われ、関羽の首を魏に送りつけることで劉備の怒りの矛先をずらそうとします。
呉歴でも孫権は関羽の首を曹操の元に送ったとあるので、孫権がどのような意図を持って関羽の首を曹操に送りつけたのかは分かりませんが、関羽の首が曹操に送られたのは事実のようです。では魏に送られた関羽の首はどうなったのか、それを見ていきましょう。
魏に託された関羽の処遇
さてまた三国志演義の話になりますが、曹操も関羽が討たれたことに驚きと共に安堵を感じます。しかしやはり配下に諭され呉に首を送り返そうとするも「丁重に埋葬した方が良い」と言われて考え直し、関羽を丁重に埋葬します。
曹操の言葉通り、首になっても二国を震え上がらせる関羽の凄さがこれでもかと強調されているシーンですね。もちろんこういった描写はあくまで三国志演義での創作で、実際には曹操は送られた首をきちんと弔っています。
因みに呉歴によると孫権は関羽の首こそ魏の曹操の元に送られますが「当陽に彼の死体を葬った」とあるように遺体はしっかりと孫権によって埋葬されたようです。それでも劉備の怒りが収まることはなく夷陵の戦いが始まってしまうのですが、それはまた別のお話。
曹操と関羽の葬儀
さてここで注目したいのが関羽の葬儀を曹操が行った件について。正史でも「曹操は諸侯の礼をもって洛陽に彼の首を葬った」とあるので、曹操が関羽の葬儀を行ったのは間違いないでしょう。しかし、その意図するところはどこにあったのでしょうか?
曹操は関羽を「漢寿亭侯」の格式で葬儀を行いました。実際には関羽には官位などはありませんから、これは曹操の判断で行われた葬儀です。つまり、かなり手厚く関羽の葬儀を行ったのです。
ここまでやったのにはただ「劉備をなだめるため」という理由だけでしょうか?
あくまで政治的なパフォーマンスだったのでしょうか?
今回考察したいのは、この曹操の思惑です。
曹操はどういう意図で関羽の葬儀を行ったのか?
個人的な考察ではありますが、曹操は関羽に「縁を感じていた」のではと思います。もちろん関羽を気に入っていたということもあるし、政治的なパフォーマンスもあったでしょう。
しかし嘗て関羽は曹操の配下であったこともあります。決して知らない仲ではない、しかも豪傑であった関羽。戦争をしているのですから命を落とすこともあるでしょう、関羽ほどの豪傑でもそれは変わらないのです。
そこに曹操は悲哀を感じたのではないでしょうか。そしてだからこそ、曹操は関羽を手厚い葬儀で見送ったのではないでしょうか?
自らが苦しめられた強敵であっても、死んだ後は丁重に埋葬する。それこそが曹操が関羽の葬儀を行った理由、曹操の最期の「礼」であったと思うのです。
三国志ライター センのひとりごと
今回は関羽の葬儀、というテーマから曹操の性格を考察、という名の妄想をしてみました。三国志演義の影響からか、良く曹操は冷血漢のような扱いをされることがあります。
しかし曹操は気に入った人間、認めた人間には礼を持って尽くす、情に厚い面もあります。三国志演義から三国志に目覚めた人たちは、そんな曹操の一面も知って欲しいですね。
参考文献:蜀書関羽伝 呉歴 魏歴
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