国家と貨幣の関係は切っても切れません。
何故なら近代国家においては、政府だけが通貨発行権を持っているからです。多くの国において高額の貨幣は紙幣であり、例えば、一万円札の製造コストは20円ですが額面では1万円で流通しています。
つまり、日本政府は1万円を一枚発行するごとに9980円儲かり財政上の利益になるのです。それは、奈良時代でも変わりなく、例えば教科書でも有名な和同開珎こそが古代日本を完成させたとも言われているのです。
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それは白村江敗戦の財政危機から始まった
日本における貨幣誕生には、外す事が出来ない事件があります。それが西暦663年起こり、今次敗戦に匹敵する大敗北を喫した白村江の戦いです。この時、唐と新羅の連合軍に対して日本と百済の連合軍は45000、その内訳は日本が4万人で百済が5千でした。
白村江の戦いは、百済を助ける為の戦争でしたが、その主力は日本軍だったのです。
戦いは、律令制の下で完全に統率された唐と新羅の連合軍に対して、寄せ集めの豪族連合だった日本の歴史的な大敗。動員した4万人の軍勢の大半が失われました。
少し時代を下った奈良期の人口は450万人から650万人と推測されています。それから推測して白村江の敗戦時の人口が500万人とすると、4万人の動員は人口の1%に達し現代なら100万人を動員した大戦争であった事になります。敗戦は、大和朝廷の財政や秩序、権威を大きく揺り動かし統治システムの改革を迫られます。
当時の天智天皇は敗戦で日本を中央集権国家にする事を目指します。
それは、各地の豪族が握っている土地と人民を返還させ、強力な中央常備軍を造り、従来は各地の豪族の自主性に任せていた行政を大和朝廷が一手に握る事を意味しています。その為には、安定した財政を保証する通貨発行のプロジェクトが必要になりました。
白村江の戦いの敗戦こそが、和同開珎の発行に繋がっていったのです。
和同開珎は日本最古の貨幣ではない
白村江の敗戦から45年後の西暦708年、武蔵国秩父郡で純度の高い自然銅が産出。それを記念して朝廷は元号を和同に改め、本格的な貨幣、和同開珎が発行されました。しかし、実際には和同開珎が日本最初の貨幣でない事が明らかになっています。
大和朝廷の鋳造かどうかは不明ですが、それ以前には無文銀銭という銀銭があり、そして、その後に大和朝廷が672年から694年の間に発行したと考えられる富本銭がありました。この富本銭ですが、どうやら、都城や宮室などの作事が大好きだった天武天皇が難波京を造営する際の財源不足に悩んで発行したものであるようです。
ですが、貨幣というのは発行したから、はいそうですかと使われるものではありません。それまでに日本では無文銀銭が流通しており、それが信用を得ていたので朝廷としては、この無文銀銭を一旦回収して、それから富本銭を流通させる必要がありました。
ところが、すでに流通して信用を得ている無文銀銭を得体が知れない富本銭に取り替えようという人は少なかったのです。天皇は詔で、無文銀銭の使用を禁止して銅銭を使うように言いますが、市場は混乱その詔のわずか3日後には、銀を併用してもいいと前言を撤回しています。
富本銭は決して粗雑な銭ではないので、使用されなかったわけではないようです。その証拠に、その後にも私鋳銭を禁止する詔が出ていてどの程度か分かりませんが、富本銭が流通していた事が窺えます。しかし、富本銭が無文銀銭に取って替わらなかったのは事実であり大和朝廷は、通貨発行の差額を儲けるというわけにはいきませんでした。
富本銭の経験を元に和同開珎を流通させる
富本銭は、無文銀銭を駆逐できませんでしたが、一応、実質以上の価値で流通しました。
これでノウハウを積んだ大和朝廷は、平城京建設プロジェクトの財政を補う為に、富本銭に次ぐ貨幣を発行します。それが、二度目の貨幣である和同開珎でしたが、今回の貨幣発行では様々なテクニックが凝らされました。
①和同開珎は銅銭と銀銭の二種類があり、銀銭を最初に発行し無文銀銭との交換の違和感を軽減した。
②秩父銅山はすでに発見されており、和同開珎の発行と共に発表したやらせイベントだった。
①の和同開珎の銀銭は、銅銭よりも3カ月早く発行され、そして一年程で発行を終了しました。
この事から、和同開珎の銀銭は無文銀銭を回収する為の見せ金であった事が分かります。
②については秩父銅山は、それ以前に発見されていた因幡国、周防国の銅山よりも小規模な事があります。
もっとも、秩父銅山は、熟銅(純度の高い銅)を出した事が史書では初ですが、純銅自体はそこまで珍しくはありません。その純銅をわざわざ天皇に献上して、寿ぐというのは、どうも銅の価値を高めようというパフォーマンスくさいのです。
やはり、和同開珎と秩父銅山には、イベントのような相関関係があるのではないかと思います。
名目貨幣として成功した和同開珎銀銭
国家が通貨を発行する動機の一つには、発行コストよりも高い価値を通貨が持つというものがあります。では、和同開珎は、その目的を達成できたのでしょうか?
まず、和同開珎の銅銭より3カ月前に発行されていた和同開珎銀銭について考えてみると、こちらは、重量にかなりのばらつきがみられるものの、平均すれば6gが規格になっていました。
一方で無文銭銀は、10g以上であり、和同開珎の銀銭は実質2/3の重さしかありません。ところが、その交換比率は1:1であった事が分かっています。つまり、和同開珎の銀銭は鋳造するだけで貨幣発行益を得る事が出来る名目貨幣だったのです。
和同開珎銀銭が成功した証拠としては、この頃、和同開珎銀銭の私鋳銭が多く出回った事で裏付けられます。
何しろ、無文銭銀を2枚鋳潰すと、和同開珎の銀銭が3枚出来て、30%以上の利ザヤが稼げるので濡れ手で粟の商売です。裏を返せば、当時の市場は和同開珎を名目貨幣として認めていたと言えるでしょう。
実質価値の5倍で流通した和同開珎銅銭
しかし、喜ぶのはまだ早いです。大和朝廷が本当に流通させたかったのは、和同開珎銅銭だったからです。
和同開珎の銅銭と無文銀銭の交換比率については史料がないようですが、和同開珎銀銭と和同開珎銅銭のフォルムが同じである事から大和朝廷は大胆にも、銅5gの和同開珎銅銭を銀10gの無文銀銭と等価交換しようと考えたようです。
和同開珎が流通しだした頃より後になりますが、奈良時代のデータによると、当時の銀と銅の交換比率は1:25で、グラム換算で言えば、銅1㎏と銀40gが等価だったようです。しかし、大和朝廷の図々しい目論見は失敗してしまいます。
その為、大和朝廷は路線を変更し無文銭銀1枚に対して和同開珎銅銭10枚と交換レートを固定します。それでも、銀1に対して銅5という交換比率はグラム換算で銅1㎏=銀200gであり、なんと従来の銀と銅の交換比率の5倍で和同開珎銅銭は流通したようです。
翻ってみると、当時の大和朝廷は、貨幣にその程度のプレミアをつけられる程市場に評価されていた事になります。日本の高信頼社会は、最近確立されたのではなく、古代から連綿と続くものだったわけです。
古代日本史ライターkawausoの独り言
滑り出しは良かった和同開珎ですが、貨幣摩滅による価値低減からは逃げられませんでした。西暦722年には、銀1:銅20に交換比率が改められ、市場における銀と銅の交換率1:25とほぼ変わらなくなります。しかし、和同開珎の試みは古代日本で広い範囲で銅銭が流通する下地を造りあげる事に成功しました。
やがて日本は貴族や寺院勢力が強まり荘園が発達、税収減から古代の中央集権制は崩壊、同時に通貨の発行も停止されます。中央政府の後ろ盾が消えた貨幣は、もはや名目貨幣になりえず、日本では絹が通貨の代わりとして広く流通します。
ただ、一度、通貨が日本の広い範囲で流通した事実は大きく、平安末期に平清盛が中国の宋銭を輸入すると、再び貨幣経済は浸透し、1226年、鎌倉幕府は正式に宋銭の使用を認めたのでした。
参考文献:日本史に学ぶマネーの論理 飯田康之
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