董承は後漢(25年~220年)の将軍であり、後漢第14代皇帝献帝の外戚(=皇帝の親族)です。
詳しい素性については、はっきりしていませんが、建安4年(199年)ごろから献帝の命令により劉備たちと一緒に曹操暗殺を計画します。しかし、建安5年(200年)に発覚して処刑されました。
董承はこのめたなのか小説『三国志演義』では忠臣として描かれています。彼の死に方については、正史の記述はあっさりとしています。今回は『三国志演義』をもとに彼の最期について解説します。
「董承 死」
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献帝による曹操暗殺依頼
ある日、曹操は自分の権力が現在、どれほど通っているか試してみることにしました。そこで献帝を誘って、狩猟に出かけます。鹿が来たので献帝は早速、矢を放ちました。しかし、なかなか当たりません。
「曹操、あの鹿を仕留めよ」と献帝は命じました。すると、曹操は献帝の弓矢を勝手に奪い、それで鹿を仕留めます。鹿には献帝ご愛用の矢が刺さっていたので、周囲の人はみんな「陛下が鹿を仕留めたのだ」と思いました。
だがその瞬間、「あわてるな、その鹿を仕留めたのは、この曹操だ!」と叫びます。曹操の部下は当然、パチパチと拍手喝采!反・曹操系の人々は黙ってしまいます。これで曹操は誰が従うか、従わないか見極めました。
さて献帝は当然、心中で嫌な思いをしました。昔から董卓やその残党からは操り人形にされてきた生活でしたが献帝もすでに19歳。いつまでも他人の操り人形として過ごすのはご免です。そこで外戚である董承に曹操の暗殺計画を持ちかけました。董承は快く引き受けました。
董承と仲間たち
ところが董承は引き受けたが、どうやればよいか分かりません。そんな時に王子服が董承の屋敷を訪ねてきます。この人は正史では王服・李服とか言ったり、名前が一定しません。
王子服は董承の様子が変なので何があったのか尋ねます。隠し通せないと判断した董承は全てを語ります。納得した王子服は計画の参加を決意。さらに、新たなる仲間として呉碩・呉子蘭・チュウ輯を推薦します。3人とも参加を承諾してくれます。
そんな時に、西涼の馬騰が現れます。彼は馬超の父親です。馬騰は西涼に帰るので董承に挨拶に来たのですが、そこで曹操に対しての愚痴をこぼします。
最初は聞き流していた董承でしたが、馬騰が忠義の士と分かったので計画参加を促しました。もちろん、馬騰は参加をOKです。さて、次は劉備でした。王子服は「劉備と曹操は仲が良いけど?」と疑問視。しかし、董承は表面の付き合いであることを見破っていました。
董承は劉備に会うと計画について明かします。劉備は「もちろんです」と即答。こうして仲間たちは董承のもとに集結しました。
名医吉平の参加
だが、仲間の馬騰は任地に帰る。劉備は袁術討伐に行ってしまい、そのまま帰ってこなくなる。いつの間にか、計画は頓挫状態でした。心労からか董承は病気になり寝込みました。
その時に看病したのが朝廷の医師の吉平でした。彼はその時、董承の寝言を聞いてしまい計画を知ってしまいます。ところが吉平は密告をすることなく、喜んで計画に参加を決意。
吉平は董承にあることを提案します。それは毒殺でした。曹操は頭痛持ちなので薬は吉平が処方しています。その薬を毒にすり替えて服用させる。死因は吉平が病気と誤魔化す。犠牲も出ないナイスな提案に董承は大喜び。早速、実行に移すことに決めました。
秦慶童の密告と董承の最期
ある日、曹操は頭痛がしたので吉平を呼びます。吉平は頭痛薬ではなく、毒薬を持ち出すと曹操の前に差し出しました。
だが、曹操は服用をする気配は全くありません。それどころか「私がお前たちの計画を知らないとでも思ったのか!」と言って吉平を捕縛しました。こうして芋づる式に董承や他の仲間も一斉検挙されます。なぜ、董承と吉平の計画は漏れたのでしょうか?
実は董承の屋敷には秦慶童という召使いがいました。秦慶童は性格の悪い男であり董承の愛人に、ちょっかいを出していました。
その現場を董承に見つかって厳重注意を受けます。クビにされないだけでもマシだったのに、この男は感謝するどころか逆恨みしました。前から董承の曹操暗殺計画については知っていたので、これを良い機会に密告に行ったのです。
こうして董承は召使いの裏切りというあっけない幕切れを迎えました・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
以上が董承の最期に関しての解説でした。横山光輝氏の『三国志』では秦慶童が、董承の愛人にちょっかいを出している設定は削除されています。秦慶童が密告した理由は「自分には家族がいるので、董承たちの巻き添えは嫌だ」とオリジナルの理由にしています。
この理由はおそらく、掲載雑誌の当時の対象年齢が青少年だったからではないかと推測しています。横山氏は前作『水滸伝』の時も不倫・残虐などの青少年にふさわしくない描写を削除していました。上記の件もその名残ではないかと思います。
ただし、時が流れるにつれて雑誌の対象年齢が上がったのか、横山氏の意向なのか不明ですが、『三国志』も後の作品も史実に忠実になっていきました。
中国史マニアの筆者としては、喜ばしい限りでした。
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董承LOVEの人、実は隠していたけど秦慶童のファンという人はコメントをどんどん送ってください。
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