日本で出回っている三国志のゲームや漫画や小説は、だいたい『三国志演義』を原作としています。その『三国志演義』は、かなり後世になってから、民間伝承やフィクションも多彩に盛り込み、読んで面白い娯楽小説として編集されてしまったもの。
それゆえ、『三国志演義』の世界観に慣れている人が、本来の歴史書である『正史三国志』のほうをいきなり読むと、いろいろとびっくりすることがあると思います。『演義』と『正史』との違いといえばいろいろなものがありますが、その中でも、五虎将軍の一人黄忠の描かれ方は、最大級のびっくりポイントではないでしょうか?
というのも、黄忠のキャラクターとして知られている要素のほとんどが、『正史』のほうには入っていないのです!
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この記事の目次
おどろき!黄忠は別に老将軍でも弓矢使いでもなければ、夷陵の戦いで死んでもいない?!
『正史三国志』の「蜀書」には、ずばり「黄忠伝」という章があります。関羽伝・張飛伝・馬超伝と、趙雲伝とに挟まれた章となっており、まさに「五虎将軍列伝」の中盤という位置づけです。
ところが黄忠ファンの人を驚かせることには、正史の「黄忠伝」はやけに短い。
しかも、要点だけを抜き出すと、
・黄忠は劉表のもとにいて、長沙を守っていた
・曹操の荊州攻略後は、韓玄の統制下におかれ、引き続き長沙を守る将軍として働いていた
・劉備が荊州を取った際にその臣下となり、蜀入りに従って活躍した
・西暦でいう219年、定軍山の戦いにて夏侯淵を打ち破った
・その翌年逝去した
と、まあ、このような感じ。
黄忠といえばイメージとして定着しているはずの「老将軍」ということを示す話は特に入っていません。弓矢の達人であったという話も入っていません。厳顔との老将軍名コンビ結成、という胸躍る展開もなければ、韓玄の配下だった時の、関羽との一騎打ちという名場面もない。
それどころか黄忠を巡るエピソードのハイライトともいえる「夷陵の戦いでの戦死」すら、正史には入っていないのです。
いったいこのギャップはどういうことなのでしょうか?
黄忠のイメージが「老将軍」になったのは関羽のせい?
そもそも「老いてなお盛んな人」なんて記述が一切ない『正史』の「黄忠伝」から、何がどこを通過して「老将軍」イメージができあがったのでしょうか?
唯一『正史』の中でヒントになりそうなのは、「費詩伝」というとんでもなくマイナーな章(費詩には悪いですが)の中の、わずかな記述です。
費詩と話をしている時の関羽のセリフとして、「大の男である私が、黄忠のような老兵と一緒の身分にされてたまるか」というような悪口を(黄忠不在の場で)ひとことだけ、しゃべっているのです。
おそらくこの関羽の悪口から「黄忠=老人」というイメージが始まったのではないか、と推測することができます。もっともこの「老兵」という悪口が「年寄りの爺さんだ」という意味のことを言っているという保証もなく、そもそもこれを言っている時期の関羽もいい年齢なわけなので、真意は不明な発言です。
これをもって黄忠のことを「老将軍」としてしまったのは、その後の民間伝承による長年をかけての「属性追加」ということになりそうです。
まとめ:黄忠はつまり民間伝承での愛されぶりがすごかった?
けっきょくのところ、黄忠の凄さは民間伝承での愛され方ということになりましょうか。どこからか付与された「愛すべき老将軍」というキャラ属性がどんどん膨らみ、そこに弓矢の名人というキャラ属性も追加され、厳顔と老将軍コンビを組んで格好良く暴れたり、夷陵の戦いで劉備に看取られながらの感動的な最期を遂げたり、もうよい事ばかりです。
一度民間伝承で確立されてしまった「キャラ立ち」というものは、こんなにも、何にも勝るものなのでしょうか?
私自身も含めて、はっきり言って誰も「老将軍以外の姿」で黄忠を想像することができないのではないでしょうか。極端な話、黄忠と言えば、もはや生まれた時から白髪・白髭だったのではないか、と思ってしまうくらいではないでしょうか。
三国志ライター YASHIROの独り言
関羽の「老兵」というひとことがここまでふくらませた黄忠のイメージ。中国の庶民からの愛されっぷり自体が、凄い!
そして、関羽と互角に一騎打ちを行い、夏侯淵を討ち取ってしまう「演義の中の黄忠」の凄さこそ、これからも愛され続けるイメージとしてメディアの中で生き続けることになるのでしょう。『正史』の中での描かれ方がどんなに薄いものであったとしても!
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