司馬懿は優秀な忠義の人?それとも信頼できない野心家であった?

2019年10月21日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

司馬懿

 

今回触れてみたい人物は、そして晋に続く人物でもある司馬懿(しばい)司馬仲達(しばちゅうたつ)です。

 

異議ありと叫ぶ司馬懿

 

筆者は司馬懿が優秀な、非凡である人間であることは疑いようもない事実であると思うのですが、では「司馬懿は忠義の人か?」と問いかけられると一瞬、言葉に詰まってしまいます。

 

司馬懿

 

果たして司馬懿は忠義の人か?それとも野心溢れる簒奪者か?

今回はこれをテーマに、筆者の考察を述べてみたいと思いので、お付き合い下さい。

 

自称・皇帝
当記事は、
「司馬懿 忠義」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:太傅・司馬懿と曹爽の権力抗争「正始の政変」とは具体的にどんな争いだったの?

関連記事:曹叡は本当に司馬懿を信頼していたのだろうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



司馬懿は忠臣か?野心家か?

司馬懿

 

まず司馬懿は忠臣か?野心家か?

皆さんはどう思いますか?

 

司馬懿と司馬師

 

司馬懿はその後に息子たちが王朝を開いてしまったことと、後述しますがクーデターの件、そしてこれは三国志演義の影響もあるかと思いますが、国のために働き続ける諸葛亮との対比もあって、時に野心家、下手をすると悪役としての一面が強調されやすい人物でもあります。

 

司馬懿が頭を下げても堂々とする常林

 

しかしその一方で、主君や国に貢献したのも真実。皇帝となった曹丕(そうひ)の四友の一人で、曹操(そうそう)からは警戒されたものの、曹丕からは庇われたこともあってか軽率な行いをしないように努めて仕えました。

 

司馬懿と曹丕

 

このため司馬懿は曹丕からは絶大な信頼を受けた人物で、後事を託された一人でもあります。

では司馬懿自身はその信頼をどう思っていたのか?

 

司馬懿を欲しがってた曹操

 

信頼に応えようとしていたのか?それとも信頼を利用していたのか?

その真意は後ほどとして、先ほど述べたクーデターに関して少し見ていきましょう。

 



問題視されるクーデター

司馬懿と曹爽

 

司馬懿は曹丕の孫にあたる、曹芳(そうほう
)
の代に曹爽(そうそう)一派から実権を奪われ、閑職に回されてしまいます。しかし後、249年に「正始の変」と呼ばれるクーデターを起こします。これによって曹爽一派は抹殺されました。

 

司馬懿の墓

 

このクーデターは「権力を盾に行われた専横を取り除く」というものですが、曹爽一派がいなくなった後は対立派閥がいなくなった司馬一族が実権を握っていくことになります。このため司馬懿による「クーデター」とされ、司馬懿の簒奪行為と言われることもあります。

 

頭を下げて礼を尽くして接する司馬懿

 

実際にはこの時に司馬懿は簒奪行為と言われるのを嫌ったのか、再び役職に就任することを断り続けています。しかし司馬懿の本心ではどうして断ったかまでは分かりません。

 

司馬懿

 

本当に忠義からやった行為で簒奪行為と言われるのが嫌だったのか、それとも野心を秘めたかったのか……それでも司馬懿の振る舞いは後々非難され、晋書でも「皇帝の遺託を受けていてそれに報いなかった。皇帝の行幸中に兵を挙げて先帝の陵も乾かぬ内に宰相を誅殺した。どうしてこれが忠臣の行いと言えるのか」とまで評されています。

 

司馬懿は忠臣であったのか?なかったのか?

司馬懿、張コウ

 

ではここで今回のテーマである、司馬懿は忠臣であったのか?なかったのか?

 

仮病を使う若き司馬懿に嫌がらせをする曹操

 

まず当時の魏、国として見ると司馬懿は忠臣ではなかったと考えています。実際に曹爽一派の専横はあったようですし、それを正すためにかどうかは別にしても司馬懿がその人物を国家から取り除くために動いたのは間違いないでしょう。

 

司馬懿

 

しかしこれは当時の国、専制君主制の世において、この行為は臣下として行える領域を逸脱している行為とも見なされます。そこにどのような意図があったとしても、当時の判断としては「行き過ぎた行動」とみられていたと思います。

 

司馬懿

 

それは晋書で司馬懿に付けられた評価から読み取れると思います。では個人として司馬懿自身に忠義心はほんの少しもなかったのか?

 

司馬懿の行動の先にあったもの

司馬懿、司馬師、司馬昭

 

筆者的には、司馬懿は先を見過ぎた中心であったのではないかと考えています。

 

司馬朗と司馬防

 

司馬懿は厳格で質実剛健な父、司馬防に厳しく育てられました。無用に出しゃばらないように、司馬防は優秀な人物であっても才気煥発を嫌うような人間でした。だからこそ司馬懿はその生涯において、必要以上の権力を嫌った節があります。

 

皇帝に就任した曹丕

 

しかし曹丕に引き立てられた以上、司馬懿はその恩義に報いようとしたのではないでしょうか。国のためにただ働き続けた、国が存続するためにどうすればいいのかを見つめ続けた。

 

司馬懿

 

ですが司馬懿は、非凡すぎたのです。専横を行う人物を自ら取り除くことも、専制君主制の世において臣下の領域を逸脱した行為と見られたように、司馬懿の考えも行動も当時としては評価できる人物がいなかったのでしょう。

 

その忠義の理解者がいなかった、それが筆者の司馬懿に対する考察です。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

司馬懿は忠臣か?野心家か?多くの人々が考察を巡らせてきたことと思います。今回はそれに関して、筆者なりの考察を述べてみました。しかし決して自分以外の考えを否定するつもりはありません。

 

朝まで三国志2017-17 ka、周瑜、陸遜、郭嘉、荀、法正、孔明、司馬懿

 

ぜひとも皆さんも考察を巡らせて、司馬懿以外の武将たちについてもどんな人物か話し合ってみて下さい。それも三国志の醍醐味ですからね。

 

参考文献:晋書帝紀第1 宣帝

 

関連記事:【極悪】司馬懿はいかにして屯田制を食い物にしたのか?

関連記事:司馬懿は孫子の兵法を戦いで用いたことある?

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-三国志の雑学
-