宦官にヨメがいたって本当?かなり当たり前だった結婚


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十常侍(宦官)

 

宦官(かんがん)とは三国志に出てくる去勢されて皇帝に仕えている使用人です。

そんな使用人の宦官ですが、皇帝に幼少期から仕えるせいで個人的な関係は良好。

 

宦官たち 

 

後漢も後半になると養子を許されたり、封候されたり要職に就いたりします。

しかし、あまり知られていないのが宦官にもヨメがいた事実なのです。

 

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曹操の祖父にもヨメ?

宦官

 

宦官が妻帯していた事は、正史三国志の魏志明帝紀にも登場します。

 

三年夏四月 元城王禮薨(げんじょうおうそうれいしきょ) 癸卯(はっき) 繁陽王穆薨(はんようおうそうぼくしきょ) 戊申(ぼしん) 追尊高祖大長秋曰高皇帝夫人呉氏曰高皇后(だいちょうしゅうそうとうとこうごうごしをついそん)

 

これは西暦229年4月、明帝曹叡(そうえい)高祖父(こうそふ)にあたる曹騰(そうとう)追尊(ついそん)した記述です。

大長秋(だいちょうしゅう)とは宦官の最高位の意味で、これが曹騰である事を意味しています。

そこまではいいのですが、その次に夫人呉氏高皇后とあるのです。

夏侯覇の妻は誰?

 

夫人といえば、今風に言えばヨメですが、少年期に宦官になった曹騰が家庭を持っていたとは考えにくいです。

だとすると曹騰は去勢した後で結婚した事になります。

一体、生殖能力のない宦官が結婚する事は可能だったのでしょうか?


劉瑜の上奏に驚くべき事実が

老荘思想(ろうそうしそう)

 

後漢書の杜欒劉李劉謝(とらんりゅうきりゅうしゃ)列伝の劉瑜(りゅうゆ)伝には、桓帝時代の宦官が広く妻帯していた事実を示す記述が残されています。

 

況從幼至長(げんじょうはしたがうえをこえ) 幽藏歿身(みはぼっす) 又常侍(またじょうじ) 黃門(こうもん) 亦廣妻娶(またひろくつまをめとる) 怨毒之氣(えんどくのき) 結成妖眚(ようきをはなつ)

 

赤字の所に常侍とあるのは、中常侍の事で黄門とはやはり宦官の専任で小黄門の事です。

劉瑜が言いたいのは、つまり

 

宦官風情(かんがんふぜい)が一人前に広く妻を(めと)っていて世も末だわ。

恨みが毒気を放って、禍々しい妖怪を生み出しているもの。もう踏んづけてやる!」

始皇帝に恨みを抱く張良

 

みたいな宦官の汚職で世が乱れた事への(いきどお)りなのです。宦官を人間未満の存在と見下している当時の儒教官僚から見ると汚らわしい妖怪どもが、人間様なみに妻帯するなど怪しからんこんな気持ちになるのでしょうね。

 

■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■

古代中国の暮らし図鑑


対食と呼ばれ官女と結婚するケースが多かった宦官

西夏の服飾(女性)

 

宦官が結婚する事は公式に認められてはいないようですが、それは多く黙認されていて符牒(ふちょう)対食(たいしょく)と呼ばれていたようです。

精選版 日本国語大辞典の解説によると

 

① さし向かいで食事をとること。相対して食事をすること。

② 食事に対すること。食事を前にすること。〔陸機(りくき)‐為周夫人贈車騎詩〕

③ 古く中国で、官に仕える者同士が勝手に夫婦となること。また、その夫婦。

宦官

 

このように書いてあり③が宦官に該当する模様です。

では、誰が宦官と結婚したかというと同じく後宮に仕えた官女がその相手になっていた様子です。

後宮では権勢を振るった宦官も、一歩外に出れば差別と憎悪の対象。

この中で心のバランスを崩さずにお互いに支えあう為に必然的に官女と宦官がくっついたのでしょう。

 

実利的な理由もあった対食

張譲(宦官)

 

また去勢されたと言っても、性欲が消えるわけではないので、ある程度の成功を収めた宦官が妾を持つ事もあったようです。

蒼天航路(そうてんこうろ)にも張譲(ちょうじょう)が、ありあまる性欲を満足させる為に、大金を積んで女性を買っては玩具として弄ぶ描写がありました。

張譲がそうだったという記録はありませんが、権勢を持った宦官には大勢の妾を持った人もいたでしょう。

 

すると冒頭に戻って曹騰のヨメである呉氏は、

①まだ出世する前の曹騰と対食した宮廷の官女

②曹騰が出世した後に持った妾だったが曹騰が養子を迎えるに辺り世間体を考えて正室に昇格した。

 

この二つの可能性が考えられます。


段々とインテリ化していった宦官

宦官の趙高(キングダム)

 

宦官と言うと、貧しく無学文盲(むがくもんもう)な人々が貧困から逃れる為に皇帝に取り入り贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をして出世したようなイメージです。しかし、後漢も後期になると高学歴で清廉な宦官も出てきました。

 

中には儒教的な教養を身につけて、仲間である宦官の汚職を糾弾するような清流派宦官のような人々が出現します。

呂範

 

その筆頭が呂強(りょきょう)で彼は儒教的宦官という矛盾(むじゅん)(?)した存在でした。

呂強は、中常侍の曹節(そうせつ)王甫(おうほ)張譲(ちょうじょう)のような人物は人品の卑しい下賤な連中で政治を私物化して皇帝を欺いて

民を搾取しているから、これを除いて使ってはならないと説き、同時に郷挙里選(きょうきょりせん)の権限を宦官が掌握する尚書ではなく、

三府(さんぷ)(三公)の手に戻す事が必要と主張しています。

 

これなんか、まんま清流派官僚の主張なんですが、それを宦官の呂強がやるというのが凄まじいというか自己破壊というかジョジョ第二部で石仮面を被って吸血鬼になったストレイツォが自ら波紋の呼吸をして自爆してしまったような感じです。

宦官たち 

 

そして呂強が言うには、自分のような宦官は一人ではないとし済陰の丁粛(ていしゅく)下邳(かひ)徐衍(じょえん)、南陽の郭耽(かくちん)、汝陽の李順(りじゅん)、北海の趙祐(ちょうゆう)を挙げて、彼らは博学多覧で著作を校書し、皆、儒者と称すべきと激賞しています。この中の丁粛は中常侍に昇進し、三公に昇進した胡広(ここう)と姻戚関係を結び、その為に胡広は宦官にひよったと仲間に指弾されたりしています。

 

結局、何が言いたいのかという話ですが、清廉な宦官もいるわけなので金に飽かせて集めた妾だけではなく、若い頃から苦楽を共にした対食の妻もいたのではないかなというだけです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

なんだか情報が少なすぎて、結局曹騰のヨメ以外については不明です。これは、扱われているのが宦官だからなのか別に理由があるのかよく分かりません。

ただ最初は貧しさから抜け出す為に、自ら去勢して後宮に入った宦官がやはり人間らしい生き方をしたいと願い正式には認められなくても官女と恋愛をして疑似的な夫婦になっていたのは、なんだか切なくも微笑(ほほえ)ましいなと思ったのです。

 

後漢書:杜欒劉李劉謝列伝 宦者列伝

 

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