呂蒙は呉(222年~280年)の将軍です。呉の建国前に亡くなっているので、正確には後漢(25年~220年)末期の将軍が正しいと思います。
建安22年(217年)に呉の全軍の責任者である魯粛が亡くなり、彼の後任になる予定であった厳畯が辞退したので、呂蒙に白羽の矢が立つことになりました。今回は正史『三国志』における呂蒙の名将になるための3ステップについてを解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「呂蒙 名将」
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ステップ1 思春期 呂蒙少年
呂蒙は若い時はお姉さんの夫の鄧当の世話になっていました。呂蒙の父親の名前が史料に出ないので、彼が幼い時に亡くなっていたと推測されます。
鄧当は孫策配下の武将であり、仕事は異民族である山越討伐でした。山越は呉の統治を悩ませている異民族であり孫権の代になっても手を焼かされます。
15、6歳の時に呂蒙は鄧当がいつも通り山越討伐に出かけるのを見て、こっそりと後ろからついていきます。しばらくして鄧当が振り返ると、なぜか家にいるはずの呂蒙がいるのでビックリ!
鄧当はいくら「戻れ」と言っても呂蒙は「いやです」と言うことを聞きません。討伐終了後に帰った鄧当と呂蒙ですが、待っていたのは呂蒙の母からの説教!普通ならば「母さん、ごめんなさい」が当たり前ですが、呂蒙は違いました。
「母さん、いつまでも貧しい暮らしでいたくありません。もし何かひょんなことから、手柄を立てたら一気にセレブになれます。それに虎の穴を探らない限り、虎の子は得れません」
呂蒙が言っていたのは「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という言葉・・・・・・危険を冒さなければ望みのものは得られないという意味でした。呂蒙の母は呆れて返す言葉も無かったようです。この時から、すでに名将の片鱗は出ていました。
徴兵をせずとも兵士を増やす
鄧当が亡くなると呂蒙は張昭の推薦で鄧当の後任に任命されました。建安5年(200年)に孫策が殺されて孫権が後を継ぎますが、この時期の呂蒙軍は多くなかったのです。
呂蒙は周囲の力の弱い武将や兵卒を自軍に入れたかったのですが、そんな許可が簡単に下りるはずがありません。考えた末に呂蒙はツケ払いで装備を購入してくると、それを自軍に支給しました。さてある日のこと孫権が軍の視察に来ると、新品の装備をしてビシっと決めている呂蒙軍を見つけます。
孫権から「いいね」の評価をもらった呂蒙は、当初の希望通り周囲の力の弱い武将・兵卒を自軍に入れることに成功します。
レッツ・スタディー・呂蒙
正史『三国志』に注を付けた裴松之の『江表伝』によると、孫権が呂蒙に向かって「君は今は将軍の地位にいるのだから、勉強ぐらいしたらどうだろうか?」と勧めました。
呂蒙は「忙しくて勉強なんてするヒマがありません」と塩対応。社会人になると、勉強するヒマは案外、見当たりませんから呂蒙が言っていることも間違っていません。
だけど孫権は「別に学者みたいにやれとは言っていないよ。ただ広く、浅くやるだけでよいんだよ。君は忙しいと言っているけど、私と比べたらどう思う?」と言い返します。
孫権は呂蒙が聡明で理解力に優れていると上手に誉めると、まずは『孫子』・『六韜』・『春秋左氏伝』・『国語』・『史記』・『漢書』・『東観漢紀』を読むことを勧めました。
少しやる気が出たのか呂蒙は早速、勉強開始。
しばらくして、魯粛が軍の視察に来て呂蒙と話しましたが、何度も論破されそうになりました。魯粛は、「私は君のことを武芸だけの人間と誤解していたようだ。今では学識も広く、呉の街の阿蒙(蒙ちゃん)ではないのだな・・・・・・」と感動しました。
魯粛は当時、荊州のことで関羽と対立していました。そこで呂蒙は関羽の対策を魯粛に授けました。魯粛はその策を喜んで持ち帰りました。
三国志ライター 晃の独り言
魯粛が呂蒙から受け取った関羽の対策は内密のことなので、現在も分かっていません。もしかしたら、この時から曹操との同盟のことを考えていたかもしれませんね。ちなみに、呂蒙は若い時にしっかりとした学問をしていなかったので、読みは出来ても、書き取りはダメだったようです。
書物を読んだだけでは伝わりづらいのですが、呂蒙が文字を読めるようになるには血のにじむような努力があったに違いありません。その点については我々は学ばねばいけないでしょう。
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