2020年のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公の麒麟がくるです。
明智光秀と言えば、世間のイメージでは謀反人の汚名を被ながらも、一人の妻を誠実に愛し、細川ガラシャのような美しい娘と慎ましくも幸福な家庭を築いたと考えられがちです。しかし、事実な小説より奇なり、真実の光秀は最大で七男五女、十二名も子供を造ったスケベ大王だったかも知れないのです。
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戦国の世では有力大名は産めよ殖やせよが基本
タイトルで明智光秀をスケベ大王と書いてしまいましたが、誤解を与えてしまうとマズいのでより正確に言うと、今よりも遥かに医療水準が低い戦国時代では、乳幼児の死亡率は五割に迫るものがありました。つまり、十人子供がいても、成人するまで生きられるのは、半分の五人という事です。
五人の半分は女子とすると、男子は二名から三名であり、常に合戦の危険と隣り合わせの戦国大名としては、甚だ心許ない人数であると言えそうです。つまり戦国大名たるもの、当人がスケベであろうとなかろうとできるだけ多くの女性と関係を持ち、自分の子孫を多く残す必要に迫られていたのですね。
実際、織田信長は正室以外にも、十一名の側室を持ち、男子が十二名、娘が最大で十二名の合計二十四名の子沢山ですし、中国の雄、毛利元就は正室以外に三人の側室を持ち、男子が十名、女子が三名の艶福家でした。
子沢山は、後継ぎを残す以外にもメリットがあります。
娘ならライバル関係にある大名の後継ぎと結婚させて政略結婚に使う事が出来ますし、男子であれば、子供がいない有力家臣の元にやって後を継がせ主従の結束を高める事が出来たのです。
明智光秀の子供を紹介
では、前説が終ったところでスケベ大王、明智光秀の子供について紹介します。
最初は、一番少ない明智軍記で書かれている三男四女七名を解説します。
長男:明智光慶
次男:明智光泰
三男:明智乙寿丸
長女:明智光春の妻
次女:明智光忠の妻
三女:玉(細川ガラシャ)
四女:津田(織田)信澄の妻
ちなみに明智軍記では、この七名の子供は全て正室の煕子との間に出来た子供なんだそうです。スゴイな光秀、妻一筋で励みやがってこのスケベ!七名でも現代の感覚ならかなりの子沢山ですが、鈴木叢書にある明智系図だともっと数が増えて、十二名になります。
長男:玄琳(妙心寺僧侶で明智系図の作成者)
次男:安古丸
三男:不立(天龍寺僧侶)
四男:明智十内
五男:自然
六男:内治麻呂
不明:定頼
女:織田信澄の妻
女:細川忠興の妻(ガラシャ)
女:筒井定次の妻
女:川勝丹波守の妻
女:井戸三十郎の妻
なんだか無茶苦茶で、両方に整合性が無さそうですが、そうでもなく、例えば、四女の細川ガラシャと三女の織田信澄の妻は、明智軍記と明智系図で共通して登場します。両者はちゃんと史書で確認できるので実在しています。
また、明智軍記に登場する長男の明智光慶は十五郎と言い、ルイス・フロイスの日本史にも登場。少年で王侯貴族のような雰囲気を持つ貴公子だったそうですが、本能寺の変の後、丹波亀山城で羽柴秀吉の軍に殺害されています。
それから、明智軍記に出てくる次男の明智光泰は、明智系図の五男の自然と目されていて本能寺の変の後に、坂本城で羽柴秀吉軍に敗れて戦死したとも、筒井順慶の養子になり筒井定頼(自然丸)になった説もあるようです。
明智軍記も明智系図も、あやふやな点が多いのですが、それとしても光秀には男子二名に女子二名の最低でも4名の子供について、実在が確定しています。現在の基準なら、充分に子沢山という事になりますね。
明智光秀の妻は煕子だけじゃない?
さて、明智軍記はともかく、明智系図の十二名の子供は不可能とは言いませんが、さすがに一人の女性が産むのはかなり無理があるような気がします。そこで、疑われるのが側室の存在です。事実、光秀には側室がいたという話もあるのです。
? :千草(山岸光信の娘)
正室:妻木煕子
継室:伏屋姫
側室:原仙仁の娘
側室:喜多村保光の娘
このように、煕子の前に1人、継室として1名、側室として2名がカウントされています。千草は、煕子の前に光秀が結婚する前に身ごもらせてしまった女性で早くに病死したようです。側室の原仙仁の娘は、一女をもうけ川勝丹波守に嫁いだとされています。もう一人の側室、喜多村保光の娘は、明智光秀の三男内麻呂を産んだそうです。
最後の伏屋姫は、もっと不明で煕子の前に光秀と結婚していたが疱瘡に罹り若くして死んだとも、別の説では、煕子が死んだ後に迎えた継室であり、1582年に坂本城で内治麻呂を産んだという説もあるようですが、ぶっちゃけよく分かりません。
いずれにしても、俗説で本当にいたという証拠はありません。
ただ、明智光秀が「生涯側室は持つまじ」とまで言って愛したと言われる煕子は光秀よりも先に1576年に亡くなったという説もありますから、それが本当なら後添えとして、別の女性を置いたというのもあり得なくはないでしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
当時の常識として、戦国大名は城内の事を切り盛りする御台所がいないと困りました。
事実、秀吉の正室の高台院や山内一豊の妻見性院等、内助の功を発揮し夫を出世させた御台所は枚挙に暇がありません。明智光秀としてはやむを得ない事情から心ならずも後妻を求めたのではないでしょうか?
織田家重鎮になった光秀は非常に多忙になり、早々本拠地の坂本に帰れたとも思えません。
亡妻の煕子に済まないと思いながら、家を維持する為に側室や継室を持ったというのが真実ではないかとkawausoは考えます。
参考文献:歴史旅人vol5明智光秀 歴史から消された生涯の謎を徹底解明
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