明智光秀の織田家での初仕事は上司の不始末の尻ぬぐいだった!


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織田信長

 

2020年のNHK大河ドラマは明智光秀(あけちみつひで)を主人公にした麒麟(きりん)がくるです。明智光秀は美濃の名門の土岐氏(ときし)庶流(しょりゅう)に生まれ、各地を転々としますが、足利義昭(あしかがよしあき)の足軽衆として拾われ、その後、主君である義昭を奉じ織田信長が上洛した事で大きく運が開けました。しかし、最初から大きな仕事を任されるわけもなく、むしろ新参者として損な役割を押し付けられる事も多かったようです。

 

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京に入ったものの緊張感がない織田軍団

藤原京

 

永禄十一(1568年)年九月、織田信長は十五代将軍の足利義昭を通じて京に入りました。さらに京の義昭の安全を確保すべく、織田軍団は摂津(せっつ)方面、さらに大和方面へも軍を進めます。これに対して摂津では池田勝正(いけだかつまさ)が降伏、さらに大和の松永久秀(まつながひさひで)も帰順しました。大和の松永久秀が帰順した事で、織田軍団はさらに大和へと進軍します。内訳は足利義昭の手勢から、細川藤孝(ほそかわふじたか)和田惟政(わだこれまさ)、織田軍からは佐久間信盛(さくまのぶもり)を大将とし総勢で2万人を擁して大和の唐招提寺(とうしょうだいじ)に陣を置いたようです。大和の人々と織田家に従わない在地勢力は、戦々恐々で進駐軍の動向を注視していました。

 

当時の事を興福寺多聞院(こうふくじたもんいん)僧侶の英俊(えいしゅん)が記録に残しています。

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

京都から公方足利義昭方大将として、細川藤孝と和田惟政、織田信長方総大将として佐久間信盛が二万の軍勢を引き連れて唐招提寺あたりに陣を取った。京都へはいずれの軍勢も派遣せず、窪城(くぼじょう)は開城したが、井戸、柳本(やなぎもと)、豊田、森屋、十市(といち)布施(ふせ)楢原(ならはら)万歳(まんざい)は今日まで城に籠っている。

 

ところが英俊の緊迫した文言とは裏腹に唐招提寺に陣を置いた織田軍団は、全く緊張感に欠け、まるで旅行に来たかのように各地の神社仏閣を参詣(さんけい)してまわる有様でした。織田家の将兵は田舎者丸出しだったのです。


杜撰な管理で山城国賀茂郡の誓約書を紛失

西遊記巻物 書物

 

新しい支配者に対して、敏感に反応した荘園に山城国賀茂郡(やましろのくにかもぐん)がありました。彼らは額を突き合わせて相談し、迅速に()け状(誓約書)を織田軍団に提出したのです。ところが、この後、あり得ない業務上のミスが発生します。混成部隊であった織田軍団は誰が何を取り仕切るのかがハッキリしておらず、山城国賀茂郡が折角(せっかく)提出した誓約書が行方不明になってしまったのです。

井伊直政

 

この誓約書は賀茂郡が毎年米を四百石、兵士を百名供出するという非常に大事な証文でした。さあ大変、賀茂郡は提出したと言い、織田方では誰も受理していないという摩訶不思議(まかふしぎ)な現象が起こります。組織が統一していないという事は、誰の責任にもならないという意味なので、皆が皆、受理した覚えはないと言えば堂々巡りになってしまうのです。

嫉妬している明智光秀

 

賀茂郡からの抗議を受けて困った織田家では、一番の下っ端に対し「お前謝ってこい」と面倒仕事を押し付けてしまいます。この有難くない仕事を押し付けられたのが明智光秀と木下秀吉(きのしたひでよし)の両名でした。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


ひたすら頭を下げ続ける光秀と秀吉

 

この時に光秀が賀茂郡に出した文書は以下のようなものです。

 

賀茂郡の軍役の誓約書が明智光秀の下にあるかとの問い合わせを頂きました。

あの頃は上洛直後で万事、バタバタしており私の下には届いていません。

しかし誓約書が悪用されては困るので、その場合は誓約書は無効にします。

また、義昭公からは、このように賀茂郡の誓約書については万事任せると

命令書の写しを賜っているので、私と秀吉についてはどうか信用して下さい。

明智十兵衛尉(あけちじゅうべいい)

 

文言を見るとヒドイ事に誓約書を失くしたのは、光秀の責任にされています。そうでないと賀茂郡の地侍達は納得しなかったのでしょう。いい加減な対応をした光秀と秀吉に対し、賀茂郡のクレームはかなり激しかったのではないかと推測します。

そもそもが、将軍義昭が出した命令書の写しを出さないと信用されないレベルですから、賀茂郡の人々は、謝罪にやってきた光秀と秀吉が本当に将軍家と織田家から派遣された人間かどうかを疑っていた可能性もあります。


十二年後 出世を果たした光秀だが

明智光秀 麒麟がくる

 

山城国賀茂郡の荘園と明智光秀の因縁は、これで終りませんでした。それから十二年後の天正八年(1580年)、今や丹波(たんば)一国と近江坂本(おうみさかもと)、34万石の大名になった光秀は、再び賀茂郡に対して書状を出す事になりました。

 

お前達が先年の多聞山城での松永久秀の反乱で、最後まで出陣しなかったのは、よろしくない事だ。本来ならば追放も止む無しの事だが、赦免を懇願したので特別に許し、所領は安堵する。ただし、約束した1200石と人夫は必ず供出するように

光秀

松永久秀

 

賀茂郡の荘園(しょうえん)は、松永久秀の反乱に対して、日和見(ひよりみ)し織田軍に兵力を出しませんでした。本来ならば荘園領主を追放すべき事例ですが、そんな事をしても賀茂郡が混乱するだけで利益がないと光秀は踏んで、思い切り恩着せがましくして罪を許し、その代わりに1200石の米と人夫を出すようにと催促しています。ここには明智光秀の台所事情の苦しさが窺えますが、同時に賀茂郡の地侍達も、十二年前に自分達に謝罪しに来た下っ端役人が、まさか織田軍の重鎮(じゅうちん)になっているとは思わず、驚いた事でしょう。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

明智光秀が信長に間接的に仕えたのは、義昭上洛の頃ですから、賀茂郡の誓約書紛失の処理は文官の仕事としては、初仕事に近いものだと思います。後には天下を驚かす働きをする光秀も、その最初の仕事は上司の不始末の尻ぬぐいだったと知ると、なんだか微笑ましいですね。

 

参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか

 

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