横山三国志において、特徴的な防具を持つ武将と言えばそれは悪来典韋でしょう。
彼の丸盾は、シンプルデザインながら短刀が十本仕込んであり、手裏剣のような正確な一撃で退却する曹操に追いすがる呂布の騎兵を打ち倒し続け、恐れをなした呂布軍は動きを止め、曹操は無事に逃れる事が出来ました。
でも、この典韋の盾設定、本場の三国志演義にはないってご存知でしたか?
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三国志演義に典韋の盾は登場しない
三国志演義でも典韋は、呂布に敗れて退却しようとする曹操軍の殿を務めていますが、その描写には盾が登場しません。その辺りの描写について三国志演義の記述を見てみましょう。
すると騎兵の中から躍り出た一人の大将、これが典韋だったが重さ八十斤の大戟を押っ取って「わが君、気づかいなさいますな」と叫ぶと、ひらりと馬から飛び降り、二本の矛を地面に突き刺し、短矛十数本を手にとって脇に挟んで従者の方を振り返ると、「敵が十歩前まで来たら呼べ」と言うなり、兜の錣を傾け、矢の降り注ぐ中を大股で歩きだした。
ね?どこにも盾は登場しません。三国志演義の典韋は二本の矛と十数本の短矛を脇に挟んで、兜を深く被って、錣(兜から垂れ下がっている小札部分)で首をガードして大股で矢が飛ぶ中を歩き出します。兜を深く被っているので前は見えず、だから従者に敵が十歩近づいたら合図を出せと命じているわけです。
吉川三国志でも盾は登場しない
横山光輝三国志は、中国の三国志演義というより日本の吉川英治三国志を元に漫画を組み立てています。では、典韋の描写も吉川三国志に準拠しているのでしょうか?こちらも小説の原文を見てみましょう。
見れば、左右の手に、重さ八十斤もあろうかと見える戟をひっさげ、敵の真っただ中を斬り開いて馳せつけて来る者がある。
馬も人も、朱血を浴びて、焔が飛んで来るようだった。
「ご主君、ご主君っ、馬をお降りあれ。そして地へ這いつくばり、しばらく敵の矢をおしのぎあれ」
矢攻めの中に立ち往生している曹操へ向って、彼は近よるなり大声で注意した。
誰かと思えば、これなん先ごろ召抱えたばかりの悪来――かの典韋であった。
「おお、悪来か」
曹操は急いで馬を跳び下り、彼のいう通り地へ這った。
悪来も馬を降りた。両手の戟を風車のように揮って矢を払った。そして敵軍に向って濶歩しながらーー中略ーーーー
五十騎ほどの敵が一かたまりになって馳けて来た。
悪来は善く戦い、敵の短剣ばかり十本も奪い取った。彼の戟はもう鋸のようになっていたので、それをなげうって、十本の短剣を身に帯びて、曹操の方を振向いた。
「――逃げ散りました。今のうちです。さあおいでなさい」
彼は、徒歩のまま、曹操の轡をとって、また馳け出した。二、三の従者もそれにつづいた。
けれど矢の雨はなお、主従を目がけて注いで来た。悪来は、兜の錣を傾けてその下へ首を突っ込みながら、真っ先に突き進んでいたが、またも一団の敵が近づいて来るのを見て、「おいっ、士卒」と、後ろへどなった。
「――おれは、こうしているから、敵のやつが、十歩の前まで近づいたら声をかけろ」
と命じた。
吉川三国志では、典韋は二本の戟を振り回して敵兵五十騎と相手しながら敵の短剣ばかりを十本程奪っています。それは戟を使いすぎて刃がのこぎりのようになったからです。三国志演義よりも奮闘ぶりが凄まじくなっていますが、やはり盾は出てきません。
正史三国志では盾を放り捨てている
では、三国志演義や、横山光輝三国志や吉川三国志の元になった正史三国志では、濮陽の戦いで殿を務めた典韋の描写はどうなっているのでしょうか?
曹操が陥陣の士(命知らずの意味)を募ると典韋が先ず手を挙げ、応募者数十人を率い、皆な二両の鎧を重ねて着衣して楯を棄て、ただ長矛を持ち戟をからげた。時に西面が忙しく、典韋は進んでこれに当たった。
賊は弓弩を乱発して矢は雨のごとく降ったが、典韋は見ずに近くにいる部下に言うには「虜が十歩に来たら申せ」部下「十歩」典韋はまた言った。「五歩で申せ」部下は震えながら早口で「来ました」と言った。典韋は手に十余戟を持ち、大きく叫んで起ち、投げると百発百中、倒れない敵はなく呂布の軍勢はたちまち退いた。
正史三国志における典韋の描写は、まず決死隊数十名のリーダーであり、楯は投げ捨てて、代わりに鎧を二重に着込んで防御力を挙げています。そして、矢の中を敵に大股で突き進んでいくような自殺行為はせず、体を地面に伏せて矢を回避しながら、部下の合図で大声をあげながら起き上がり、戟を投げて敵を突き刺すという手法を用いています。
これは典韋ばかりでなく、残り数十名の陥陣の士も同じ事をしたと推測できますから、正史の典韋は一人で呂布の軍勢を追い払ったわけではないのです。フィクション満載の三国志演義に比較するとグレードダウンですが、この何とも言えないリアリティは、やはり本物という感じがしまふ
結論 横山三国志の典韋の仕込み盾はオリジナル設定
こうしてみると、横山三国志は吉川三国志をすべて漫画にして再現しているのではなく吉川三国志における、典韋が敵兵から短剣を奪ったという部分を採用し、そこにオリジナル要素の盾を登場させ、短剣を盾の内側に仕込んで投げるという独自の話に造り直したという事が言えますね。
また、横山光輝は水滸伝も書いていて、そこに八臂哪吒という渾名の項充という手裏剣の名手が出てきます。この項充は原作の水滸伝では盾の中に短剣を仕込んでいるキャラクターになっています。また横山水滸伝の項充は横山三国志の典韋とそっくりな盾を持っていました。
もしかすると、この辺りが典韋が仕込み盾を持つに至った原因かも知れません。
横山三国志で典韋が持っているような短剣を仕込んだ盾ですが、検索してみた結果、実際の三国志の時代には見られませんでした。しかし、帝政ローマの末期にはスクトゥムという大型の丸盾が登場し、そこに槍や数本の投げ矢を仕込んで武器に使うケースもあったようです。それが中国に伝わったか、似たようなものがあったかは不明です。
三国志ライターkawausoの独り言
中国では、丸盾は円牌と言いますが、そんな昔からあったわけではなく、三国志の時代には五角形の双弧盾と言う、弓矢を外向きに二つ合わせたような形の盾が主流でした。また、円牌は蛮牌とも言うので、元々は異民族からもたらされた形なのかも知れません。明の時代になると円牌も見られるようなる為、モンゴルのような異民族支配で定着した盾の形式かも知れませんね。
吉川英治三国志 群青の巻
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