建安24年(219年)に蜀(221年~263年)の関羽は樊城にいる曹仁を攻撃開始。城を包囲された曹仁は身動きがとれなくなりました。
また、曹仁の救援として駆け付けた于禁・龐徳も大雨のために軍が壊滅。関羽により龐徳は処刑されて、于禁は捕縛されます。絶体絶命のピンチとなった曹仁を救うべく、第2の救援として徐晃が向かいました。今回は正史『三国志』をもとに徐晃と関羽の戦いを解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
徐晃、曹仁の救援に向かう
建安24年(219年)に関羽は樊城の曹仁を攻撃。曹仁のピンチを聞いた曹操は急いで徐晃に救援要請を依頼しました。徐晃は宛に駐屯して、しばらく戦況の様子を伺っていました。だがしばらくすると、大雨が降ってきます。
それどころか、自分よりも先に派遣された于禁・龐徳の軍が大雨のために壊滅したという報告が入って来ました。于禁・龐徳を破って勢いに乗った関羽は樊城だけではなく、呂常が守備している襄陽城も包囲してしまいます。
徐晃は弱りました。彼が連れて来たのは新兵が多く、歴戦の勇者である関羽と正面からぶつかっては勝ち目がありません。やむを得ず徐晃は陽陵陂まで軍を進めて、そこで進軍を中断しました。
曹操の不安と桓階の諫言
一方、曹操は不安でした。徐晃に曹仁の救援を依頼したが、ちっとも勝つ気配がありません。やっぱり徐晃では力不足だったのかと思って、自分が出陣しようと考えました。みんなに意見を求めると、「曹操様が行けば、勝って当たり前ですよ」と言います。曹操も行くことを決めたその時、部下の桓階が曹操の前に出ました。
「曹操様は曹仁殿が樊城を守備出来ないと考えていますか?」
「出来ると思っているけど・・・・・・」
「曹操様は曹仁殿と呂常殿が事態に対処出来ないと考えていますか?」
「別にそんなことないけど・・・・・・」
「それじゃあ何で自分から行くと言うのですか?」
「敵の数が多くて、徐晃では難しいと思うから救援に行こうと思っただけだ・・・・・・」
「曹仁が包囲されているのに裏切らないのは、曹操様が遠方から威圧しているからです。そもそも助かる見込みが無いと分かったら、死を覚悟して戦います。曹操様はなぜ、敗戦を心配して出陣されるのですか?」
言われてみればその通り、と思った曹操は呂建と徐商の2名を救援に派遣。自分は遠くに陣を敷いて戦いの様子を見守ることにしました。
決戦 徐晃VS関羽
徐晃は援軍が到着すると偃城の蜀軍と対峙します。徐晃は塹壕を掘って蜀軍の背後を断つ姿勢を見せます。おそらく徐晃が断ったのは兵糧庫の方でしょう。退路を断たれた蜀軍はやむを得ず偃城を捨てました。無血で城を手に入れた徐晃のもとに曹操からさらなる援軍が到着。徐晃は蜀軍が囲頭と四冢(しちょう)に陣を構えていることを確認。どちらを攻撃するかで議論した結果、囲頭を攻撃すると見せかけて、四冢することに決めました。
蜀軍は徐晃のフェイクに引っかかりました。。関羽は急いで徐晃の撃退にかかりますが、すでに時遅し・・・・・・蜀軍は壊滅しました。また、包囲していた樊城の曹仁も城から出陣!こうして関羽は敗走。後に孫権に捕縛されて斬られました。
三国志ライター 晃の独り言
今から10年前の2009年に横山光輝氏の「三国志祭」というのがありました。亡くなった横山氏の影響が強いことが分かります。長田区新長田で開催されていました。商店街にはキャラクターのバナーが、五十音順にずらりと並んでいます。
伊籍から盧植まで・・・・・・
中には虞翻・満寵・張角など、マンガにほとんど登場しなかったキャラクターまで並べられていました。ほぼマニア向けの商店街です。きっと筆者や読者の皆様のような人が歩かれるのでしょうね(笑)
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上記の「三国志祭」に行ったという人はコメントをください!
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