【悲報】上杉謙信はアナクロ過ぎて天下が獲れなかった

2020年1月4日


 

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上杉謙信

 

越後(えちご)の龍、上杉謙信(うえすぎけんしん)、彼の生涯戦績(しょうがいせんせき)は70戦43勝2敗25分けで勝率は6割を超えており、負けは2度しかないという最強クラスの戦国武将です。それでも周辺の大名が弱ければ勝率6割も珍しくもありませんが、謙信の周辺は北条氏、武田氏、今川氏と大物(そろ)い、中でも武田軍団と五度も戦い勝ち越しているのだから半端じゃありません。でも、どうして、そこまで強い上杉謙信が天下を獲れなかったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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実は大金持ちな上杉謙信

上杉謙信

 

上杉謙信と言うと仏門に入り質素な暮らしをしていたせいで、そんなに大金持ちイメージがありませんが、領内には直江津(なおえづ)港と柏崎(かしわざき)港という大きな港があり、また、鶴子(つるし)銀山、西三砂(にしみさご)金山、高根金山という鉱山、さらに、越後上布(えちごじょうふ)という全国的に有名な特産品もあり、謙信はこちらに課税して莫大な収益を得ていました。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

越後は石高は40万石ですが、二つの港は合計で30万石相当、これだけで70万石、それに金銀山、越後上布から上る収益を考えると80万石の経済力は堅いでしょう。ライバルの武田信玄が本拠地の甲斐が22万石と土地がやせ重税でなんとか武田軍団を維持していたのと対照的に上杉謙信は金持ち大名だったと言えます。

真田丸 武田信玄

 

また、謙信の死後、後継者の上杉景勝(うえすぎかげかつ)春日山城(かすがやまじょう)の金蔵を開くと備蓄金が27140両もあったそうです。武田信玄が人生最後の西上作戦で領内からかき集めた軍資金が7000両しかなかった事を考えると、謙信は4倍近い金を持っていたわけです。

 

恵まれていた故に財政改革をしてない謙信

梅干しと酒を楽しむ上杉謙信

 

では、どうして上杉謙信は恵まれた経済力があるのに天下を獲れなかったのでしょうか?第一には、付近に本願寺(ほんがんじ)勢力、武田信玄(たけだしんげn)北条氏康(ほうじょううじやす)のような強力な戦国大名がいて、うかうか上洛など出来ない事がありました。特に信玄とは不倶戴天(ふぐたいてん)の関係であり、信濃(しなの)領有を巡り五度も戦いました。このような強力なライバルがいなければ上杉謙信が中央に出るのはもっと楽だったでしょう。

織田信長

 

もっとも、周囲を強力なライバルに囲まれていたのは謙信ばかりではありません。織田信長は、東を今川、北を斎藤に押さえられて、父の代から死闘を繰り広げていましたし、尾張統一が出来ない間に今川義元(いまがわよしもと)に攻め込まれ桶狭間(おけはざま)で劇的な勝利を掴むなど、相当な苦労をして勝ち上がってきています。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

上杉謙信が天下を獲れない理由、それは恵まれた経済力があったので、特に財政改革で収益を増やそうとは考えなかった点です。例えば、謙信は府内という港の商人に地銭(じせん)(固定資産税)と諸役を五年間限定で免除して商業を盛んにする政策を打ってはいますが、一時的なもので、信長の楽市・楽座のように、誰にでも商売を許すような大胆さはありません。

 

また、信長が不要な関所を廃止して通行税を免除したり寺院や土豪のような既得権益者を整理したりしたような大幅な財政改革もしませんでした。

なまじ領国が豊かだったからこそ謙信は財政改革の必要性を感じなかったのでしょう。これにより新興の織田家との間には大きな経済格差が出来てしまったのです。

 

上杉謙信特集

 

鉄砲に理解がなくアナクロだった謙信

暗号を使う上杉謙信

 

もう一つ、上杉謙信に決定的に足りなかったのは、時代が変わっているという事に対する理解でした。すでに時代は下克上(げこくじょう)の戦国時代でしたが、謙信はそんな風潮(ふうちょう)こそ間違っていると憤慨(ふんがい)し、受け継いだ関東管領(かんとうかんれい)という東国武士の長の肩書を元に、関東各地の紛争の調停に動いていました。厳しい評価をすると、上杉謙信は戦国の世を室町時代の秩序に戻そうと不可逆な流れに逆らったアナクロニズム(時代錯誤(じだいさくご))の戦国大名だったのです。

火縄銃を気に入る織田信長

 

特に、時代を変える原動力になった鉄砲の保有数が上杉は非常に少なく、天正三年(1575年)の段階で316挺しかありませんでした。天正三年は有名な長篠(ながしの)の戦いが起きた年であり、長篠合戦では、織田家は千挺以上の鉄砲を運用し領国全体では万単位の鉄砲を保有していた可能性もあり、西の毛利でも数千挺の鉄砲を保有していました。

武田信玄-vs-上杉謙信

 

ライバルである武田信玄も、弘治元年(1555年)第二次川中島の戦い300挺の鉄砲を投入した事が甲陽軍鑑に出て来ます。20年以上前に300の鉄砲を保有していた武田信玄のレベルに二十年後にやっと到達ですから、かなり遅いです。

領地が貧しければ、高価な鉄砲が揃わないのは仕方がありませんが、潤沢(じゅんたく)な資金があり、織田家との友好関係もかなり長く続いていた上杉謙信です。その気になればいくらでも鉄砲が買えたのに買わなかったのは、やはり鉄砲にあまり価値を見出してはいなかったという事ではないでしょうか?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

上杉謙信は、鉄砲が主流になりつつあった戦国時代の戦いの中でも、昔ながらの接近戦を得意とし、刻々と動く戦況を見ながら瞬時の判断で勝利を手にしていました。軍略としては、義経記や太平記を読み、後に謙信は義経に武略を学んだと語ったそうです。

亡くなる上杉謙信

 

天正五年の手取川の戦いで織田軍を打ち破った謙信ですが、「信長も大したことない」と書状に書いた割に、翌年には再び戦の準備をしています。大敗してもあっという間に体制を整えてしまう織田軍団の経済力に謙信も考える所があったのでしょうか?しかし、天正六年(1578年)3月9日に謙信は脳卒中で倒れ、帰らぬ人になりました。

 

参考文献:「桶狭間」は経済戦争だった 戦国史の謎は経済で解ける

 

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武田信玄

 

 

 

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