織田信長のコンビニ戦略小牧山城は稲葉山城を経済で潰す為に築かれた

2020年1月6日


 

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織田信長

 

日本全体では、コンビニが5万件程あるそうでかなりの飽和状態(ほうわじょうたい)です。こうなると後は限られた需要を巡って大手コンビニ店舗が、狭いエリアに店舗を出して潰し合いが始まる事になります。ところが、このような淘汰競争(とうたきょうそう)は21世紀の日本だけでなく、16世紀後半、小牧山(こまきやま)に城下町を築いた織田信長(おだのぶなが)がすでに実践(じっせん)していたのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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美濃の斎藤義龍、龍興に戦争で敗北する信長

三国志のモブ 反乱

 

織田信長が美濃(みの)の戦国大名、斎藤道三(さいとうどうさん)の娘の帰蝶(きちょう)と結婚して姻戚関係を結んでいた事はよく知られています。しかし、強引な手法で美濃の支配者に成りあがった道三には政敵も多く、弘治二年(1556年)冷遇していた嫡男の斎藤義龍(さいとうよしたつ)(そむ)かれ、長良川(ながらがわ)の戦いでの決戦で敗れて戦死します。

斎藤道三の娘・帰蝶

 

信長は道三が叛かれたと聞くと、兵を率いて救援に向かいますが、そこで出現した義龍の軍勢に大苦戦。信長が自ら殿(しんがり)を務めて撤退しました。その後、斎藤義龍は病死し斎藤龍興(さいとうたつおき)が後を継ぎますが、それに挑んだ織田軍は永禄六年(1563年)新加納(しんかのう)の戦いで龍興方の竹中半兵衛(たけなかはんべい)の伏兵によって敗北しました。

 

織田軍の度重なる敗戦の理由が、稲葉山城下町の経済力に支えられた斎藤軍の軍隊にあると考えた信長は、武器の戦いと並行して経済の戦いを実行する事を決意したのです。

 

稲葉山城下から僅か15キロのポイントに小牧山城下町を建設

藤原京

 

そして信長は、清須の城下町を稲葉山城下から15キロのポイントにあった小牧山に移転する事を決意しました。しかし、この遷都(せんと)に対し、80年以上も清須に住み慣れた家臣たちは不満を述べる事を予想した信長は一計を案じ、最初小牧山よりさらに北方の丹羽郡(にわぐん)二ノ宮山に拠点を(うつ)すと宣言します。

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

もちろん家臣は猛反対、そこで信長は家臣の意見を考慮したと言い、二ノ宮山拠点計画を取り下げ、改めて小牧山に城下町を築くと命じると、特に反対もなくすんなり決まったという事です。やいのやいの言っていた家臣は、ただ住み慣れた土地から他所に遷るのが面倒臭かっただけなんですね。

 


朝まで三国志2017 観客 モブ

 

織田信長スペシャル

 

機能的に整備された小牧山城下町

 

織田信長は永禄六年(1563年)小牧山に城を築くと、その南の原野に城下町を開きます。近年、小牧山城下町は発掘調査が進み、短冊形の町割りを行い道路を太くして碁盤目(ごばんめ)に整理している事が明らかになってきました。町名には鍛冶屋かじや町や紺屋こんや町、油屋あぶらや町などが散見され職業選別制に基づき特定の産業を集中させている様子が窺えます。

小牧山城下町跡に残る信長独自の工夫としてはメインストリートを二本走らせた事が挙げられます。

それまで都市のメインストリートは一本が基本で、その両側が繁栄したに過ぎませんが信長は従来の町づくりの常識を破り、メインストリートを二本にし繁華街を2倍に増やしたのです。

斎藤龍興

 

かくして合理的な町づくりを実践した信長の努力は実を結び城下町は次第に繁栄、ついには稲葉山から商人が移転するようになりました。これに加えて、軍事面では木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)が竹中半兵衛を引き抜いたり、斎藤氏の有力家臣を調略により寝返らせたり、墨俣城を築くなどして斎藤龍興を圧倒していき、1567年にはついに稲葉山城を陥落させ、斎藤龍興を追い払う事に成功します。

 

 

こうして、美濃を手に入れた織田信長は、稲葉山を岐阜(ぎふ)と改名し、金華山の山頂に岐阜城を築城、そして、小牧山の城下町をそのまま稲葉山に移動させてしまいます。こうして、一度衰えた稲葉山城下町は、信長の楽市(らくいち)楽座(らくざ)などの経済政策もあり、以前にも増して繁栄するようになります。その繁栄ぶりは、当時、稲葉山を訪れた宣教師ルイス・フロイスが

ルイス・フロイス

 

「私達は岐阜の市に至りましたが、人々の語るところによれば、都市は八千から一万の人口を数えるとのことでした。取引きや用務で往来する人々が夥しく、バビロンの混雑を思わせる程で、塩を積んだ多くの馬や反物、その他の品物を抱えた商人たちが諸国から集まっていました」

 

このように記述するほど、当時空前の繁栄を誇ったのです。

豊臣秀吉を信頼する織田信長

 

岐阜城下町の繁栄の一方で、小牧山城下町は僅か4年間の寿命で消えてしまうわけですが、ここからは、信長が城下町を付近に置く事で稲葉山城下町を圧迫して勝利した事実が分かるのです。

 

石垣を巡らした本格的な城だった小牧山

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

従来、小牧山城は、信長が在住した期間が短い事から、臨時に築かれた城であるという評価が支配的でした。ところが近年の発掘調査により、小牧山城が当時の常識を覆した石垣を巡らした本格的な城であった事が分かってきています。平成16年から続く発掘調査では、主郭(しゅかく)を巡る斜面では二から三段の石垣が検出。石垣は野面積(のづらずみ)で、鈍角(どんかく)入隅(いりずみ)出隅(ですみ)を繰り返し主郭を囲んでおり、平成26年には三段目の石垣を確認し主郭が幾重もの段築石段に囲まれていた事が判明しています。

安土城 織田信長が作らせた城

 

日本において、石垣を持つ城が出現したのは安土城からだと考えられてきましたが、実際には小牧山城の段階で信長が石垣に覆われた城を志向した事が分かってきました。ただ、小牧山城には、天主郭を持つ高層建築は無かったようで、また瓦も出土しない事から、中世的な土塁の城と石垣を持つ織豊期(しょくほうき)の城への過渡期の城郭と言えそうです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

織田信長の非凡な所は、軍事力というものが軍事力単体で成立するものではないと知っていた点にあります。何度も稲葉山に攻めこんで斎藤氏の軍事力に敗れた信長は、その強さの源泉を、稲葉山の城下町の経済的な繁栄にあると見て、その繁栄を奪い取る為に、近くに小牧山城下町を開いて、文字通り経済の戦争を開始したのです。そして、稲葉山城を陥落させるやいなや、惜しげもなく小牧山城下町を引越して、稲葉山城下町をより繁栄させたわけですから、経済の着眼点の非凡さには驚きますね。

 

参考文献:歴史REAL 織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌

 

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