塩税が主要な国家収入だった漢王朝。その漢王朝と同時期にイギリス、欧州、地中海沿岸から北アフリカに及ぶ大帝国を建設していたのがローマ帝国です。漢王朝と同じく、ローマ帝国においても塩は重要な産物でした。というより塩なしには、ローマ帝国は版図を拡大する事も出来ませんでした。まさにローマは塩がないと成らずが歴史の真実だったのです。
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ローマ帝国が生み出した人民の塩
古代ローマ人は民主制、一般市民の諸権利、そして一時期は共和制を礼賛しつつも、いずれも先生であった古代ギリシャ人よりも不徹底でした。ローマの歴史とは貴族と平民の権力闘争の歴史であり、平民は権利を求め、貴族は平民を排除しようと奮闘しました。そんな中、平民の権利の主張に歯止めを掛け特権を守ろうとした貴族が提唱したのが、「すべての人民に塩を与えよ」というスローガンでした。ローマ帝国は、このスローガンを大真面目に実行すべく、全てのローマ人の食卓に塩が行き渡るよう全力を注ぎます。人民の塩、すなわち「食塩」とは古代ローマ人が生み出した概念なのです。
塩に補助金を出したり価格を引き上げたり
ローマ帝国は前漢王朝と違い、塩を専売制にはしませんでした。ただし、それは塩の価格に介入しなかったわけではなく、必要とあれば簡単に価格介入しました。記録に残る最古の価格介入は紀元前506年で、この時は塩の値段が高すぎるという善意の介入でした。共和制でも帝政でもローマの支配者は、塩をネタにし、塩の購入に補助金を出して価格を安く抑えるなどして人気取りに腐心します。
具体例では、初代ローマ皇帝アウグストゥスが、クレオパトラとアントニウスを撃破する海戦の前に、ローマ市民に対して、オリーブ油と塩を無料で与えるとして支持率を高めている記録があります。
もちろん、ローマ帝国は市民に対して甘い顔ばかりをしていたのではありません。カルタゴとの間で一世紀にわたり続いたポエニ戦役の間、財政がひっ迫したローマ共和国は塩の値段を人為的に操作し、塩の収入を軍事費に充てていました。それも巧妙にも、ローマ市民に対しては塩を低価格で維持して不満を抑えつつ、地方都市に対してだけ、最寄りの製塩所からの距離に応じて価格を吊り上げたのです。
このアイデアを出したのは、平民代表の護民官 マルクス・リウィウスでした。狡賢い方法で、ローマ市民の不満を回避して支配者を助けた彼はローマ版桑弘羊とも言えるでしょうか
ローマを拡張した塩の道
古代ローマ時代からの大きな街道の一つにサラリア街道があります。これは日本語で塩の道と言い長靴のようなイタリア半島の半分くらいまで道が伸びています。このサラリア街道は、当初は塩の輸送路として機能しましたが、帝国が拡大するとどんどん不便になっていきます。ローマ軍は兵、馬、家畜の為に大量の塩を帝国に要求しました。馬は人間の五倍の塩、牛は十倍の塩がないと生きていけません。ローマが帝国的な野心を満足させる為に何としても確保する必要があるのは塩でした。
因みに塩は兵士に支払う給与でもあり、給与を意味するサラリーは塩を語源とし、兵士を意味するソルジャーも、やはり塩が由来です。
そこで、ローマ帝国は、イタリア半島のいたるところに製塩所を建設し、次にガリア(欧州)ブリテン島、北アフリカ、シチリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、黒海、中東と版図の到る所に製塩所を建造したり敵から奪取したりしました。現在でも古代ローマが所有していた製塩所跡が六十カ所以上確認されています。
ローマ人の製塩方法は、海の側の場合には、海水を陸地にプールして、天日で乾かして塩の結晶を得たり、陶器の壷で海水を煮詰めて塩の塊ができると陶器を叩き割る等の方法がありました。古代ローマの遺跡でやたら陶片が出てくるのは、塩の塊を取る時に陶器を叩き割る習慣のせいなのです。
臭い魚醤が大好きなローマ人
帝国の拡大により、大量の塩を使えるようになったローマ人の最大の好物は魚でした。シチリア半島から黒海のビザンチウムまで、ローマ帝国の版図では、マグロ、イワシ、チョウザメ、サバ、大量の魚が獲れ、その保存として塩漬けの魚が誕生して一大産業になったのです。ごく慎ましい労働者の食事でさえ、目の粗いパンに少量の塩漬け魚、そしてオリーブでした。
そして、塩漬け保存の為の塩は自然に、魚の内臓を天日に当てて発酵させる魚醤に結びついていきました。古代ローマにおいて、魚醤はガルムと呼ばれ、瓶詰の魚同様に全ての病を癒す万能の薬と信じられたのです。古代中国人が塩を使い、多種多様な醤を醸造したように、古代ローマ人も料理に塩をかけるより魚醤をかける事を好み、肉、魚、果物にまでかけました。
ガルムには高級品もありましたが、刺激臭と発酵は紙一重で、猛烈な悪臭が発生しました。それでも、グルメで珍味が大好きなローマ貴族はガルムを珍重し時として吐き気を催す臭いに対して、臭い消しの方法を考案してまで食べました。
フランス人がベトナムで魚醤にあった時
しかし、五世紀にローマ帝国が東西に分裂し西ローマ帝国が崩壊すると、魚の内臓を発酵させて食うという七面倒な上にグロテスクな調味料は、素朴なゲルマン人に受け入れられず歴史から消えていきます。彼らはガルムを臭い!の一言で切り捨て、調味料は塩で沢山とシンプルな食生活に回帰したのです。19世紀後半、ベトナムを植民地にしたフランス人は、ベトナム人が魚醤であるニョクマムを食べるのを見て、「ベトナム人は腐った魚を食べる」と仰天しました。フランス人は先祖である古代ローマ人が強烈な臭いをモノともせずにガルムを愛好した事をすっかり忘れていたのです。
kawauoの独り言
古代ローマにとって塩は、帝国を拡大する為に欠かせないアイテムであり、権利志向が強い平民の不満をガス抜きする恩典の一つでした。そして、塩が生み出した魚醤は最高の珍味であると同時に薬として、広く多くのローマ人に愛好されたのです。いずれも塩なしには成立しない事ばかりであり、ローマもまた塩の帝国でした。
参考文献:塩の世界史 歴史を動かした小さな粒
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