時期を同じくして、アジア大陸の東と西で発展していった漢とローマ、お互いの国交が開ける以前から、二つの国は、大陸の果てにどうやら自国に匹敵する巨大な国があるらしいと知り得てはいました。
後漢時代に西域異民族を上手く懐柔した軍人班超(はんちょう)は西の果てにあると言われた大秦国ローマを探しだし国交を結ぶように副官の甘英(かんえい)に言いつけます。しかし、甘英は、今一歩の所でローマとの邂逅(かいこう)を断念してしまうのです。
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西域を平定した名将、班超、大秦国(ローマ)との国交を求める
甘英(かんえい)は、匈奴(きょうど)や楼蘭(ろうらん)、ホータン、カシュガル、大月氏(だいげっし)というような西域の諸民族と戦いつつも、上手くコントロールし後漢の勢力を保った名将軍、班超の副官です。
班超は名将として名高い人物で、危険を背負わなければ利益も得られないという意味の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」で有名な人です。そんな班超は、西域異民族の情報から、遥か西にある大国、大秦国(ローマ)の噂を聞き、直接国交を結ぼうと考えていました。
軍人のイメージの班超ですが実は貧乏な歴史家の出で自らも歴史を学んでいました。行けるなら班超自身が大秦国(ローマ)へ行きたかったのでしょうが、当時の西域における漢の勢力は、班超の力で維持されていたようなものでしたので、かわりに副官の甘英を派遣する事にします。
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甘英、直線距離9000キロのローマに出発、目指すは西の海
しかし、風聞でしか知らず、中国人が到達した事のない道のローマへの旅路は、直線距離でも9000キロはあるという大冒険でした。それ以前に記された地理書である山海経(せんがいきょう)にもローマの事は全く出てきておらず、甘英は、全くの手探りからの出発になります。実際には、途上には砂漠もあり、山脈もあり、漢と友好的ではない国もある以上実際の旅路は1万キロを超えるのは確実と言えるでしょう。
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歴史家でもあった班超は、甘英にレポートを残すように命ずる
西暦97年、ローマに出発するにあたり、班超は、旅の途中に見聞した事柄について詳細なレポートを残すように、甘英に命じています。現在、甘英が残したであろうレポートは失われ、後漢書の記述からの間接的な引用しか出来ない状態ではありますが、それでも種々の興味深い記述があります。
甘英が集めたローマの情報
大秦國一名廣鞬,以在海西,亦云海西國。地方數千里,有四百餘城。小國役屬者數十。以石為城郭。列置郵亭,皆堊塈之。有松柏諸木百草
甘英がローマへの道の途中で拾い見聞きした事には上のような情報があります。意味は大体、以下の通りになります。
「大秦は、別名を廣鞬(こうたつ)という、西の海にありまたは海西国と伝わる、面積は数千里もあり、400以上の都市が存在し、周囲の数十の小国を従えている。城郭を造るのに石を用い、駅伝の制が発達していて、松とイトスギが生えている」
一部、分からない部分は訳していませんが、ローマがかなり大きい国である事、そして中国と違い、石で城郭を造っている事や駅伝制の事、衛星国が存在する事や、どんな樹木が生えているかまでを記録しています。
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