テルマエ・ロマエのルシウスもびっくり!後漢の甘英、ローマを目指す!

2015年12月3日


 

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曹操(後漢王朝)とローマ帝国

 

時期を同じくして、アジア大陸の東と西で発展していった漢とローマ、お互いの国交が開ける以前から、二つの国は、大陸の果てにどうやら自国に匹敵する巨大な国があるらしいと知り得てはいました。

 

班超

 

後漢時代に西域異民族を上手く懐柔した軍人班超(はんちょう)は西の果てにあると言われた大秦国ローマを探しだし国交を結ぶように副官の甘英(かんえい)に言いつけます。しかし、甘英は、今一歩の所でローマとの邂逅(かいこう)を断念してしまうのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西域を平定した名将、班超、大秦国(ローマ)との国交を求める

匈奴の劉淵

 

甘英(かんえい)は、匈奴(きょうど)や楼蘭(ろうらん)、ホータン、カシュガル、大月氏(だいげっし)というような西域の諸民族と戦いつつも、上手くコントロールし後漢の勢力を保った名将軍、班超の副官です。

 

筆を握り満足できない班超

 

班超は名将として名高い人物で、危険を背負わなければ利益も得られないという意味の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」で有名な人です。そんな班超は、西域異民族の情報から、遥か西にある大国、大秦国(ローマ)の噂を聞き、直接国交を結ぼうと考えていました。

 

軍人のイメージの班超ですが実は貧乏な歴史家の出で自らも歴史を学んでいました。行けるなら班超自身が大秦国(ローマ)へ行きたかったのでしょうが、当時の西域における漢の勢力は、班超の力で維持されていたようなものでしたので、かわりに副官の甘英を派遣する事にします。

 

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甘英、直線距離9000キロのローマに出発、目指すは西の海

山海経(書類)

 

しかし、風聞でしか知らず、中国人が到達した事のない道のローマへの旅路は、直線距離でも9000キロはあるという大冒険でした。それ以前に記された地理書である山海経(せんがいきょう)にもローマの事は全く出てきておらず、甘英は、全くの手探りからの出発になります。実際には、途上には砂漠もあり、山脈もあり、漢と友好的ではない国もある以上実際の旅路は1万キロを超えるのは確実と言えるでしょう。

 

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歴史家でもあった班超は、甘英にレポートを残すように命ずる

 

西暦97年、ローマに出発するにあたり、班超は、旅の途中に見聞した事柄について詳細なレポートを残すように、甘英に命じています。現在、甘英が残したであろうレポートは失われ、後漢書の記述からの間接的な引用しか出来ない状態ではありますが、それでも種々の興味深い記述があります。

 

甘英が集めたローマの情報

 

大秦國一名廣鞬,以在海西,亦云海西國。地方數千里,有四百餘城。小國役屬者數十。以石為城郭。列置郵亭,皆堊塈之。有松柏諸木百草

 

甘英がローマへの道の途中で拾い見聞きした事には上のような情報があります。意味は大体、以下の通りになります。

 

「大秦は、別名を廣鞬(こうたつ)という、西の海にありまたは海西国と伝わる、面積は数千里もあり、400以上の都市が存在し、周囲の数十の小国を従えている。城郭を造るのに石を用い、駅伝の制が発達していて、松とイトスギが生えている」

 

テルマエロマエ

 

一部、分からない部分は訳していませんが、ローマがかなり大きい国である事、そして中国と違い、石で城郭を造っている事や駅伝制の事、衛星国が存在する事や、どんな樹木が生えているかまでを記録しています。

 

 

天変地異で王は解雇される?ローマの政治体制

ローマ法王の尻に敷かれる貧乏な欧州の国王達

 

其王無有常人,皆簡立賢者。國中災異及風雨不時,輒廢而更立,受放者甘黜不怨。

 

また、甘英は、ローマの政治体制についても知識を得ていたもようです。上の漢文の意訳は、下の通りです。

 

「(ローマ)の王は決まった血筋の人間ではない、みんなで話し合い賢者を立てる国中で、天変地異が起きたりした場合には、王は首にされたりする。しかし、首にされた王は、それを恨まない」

 

甘英には理解しがたかっただろう、共和制の概念

給料である塩が貰えずに困っているローマ兵

 

甘英が得たこのローマの政治体制に関する知識は、帝制に移行する前の共和制のローマの知識で、甘英の時代にはローマは帝制になり原則的には世襲に近くなっています。

 

それはそうとして、天に選ばれた皇帝が世界を支配する中華の常識の中で生まれた甘英には、天変地異で首にされたり、市民に選ばれるローマの王は、どのように映ったのでしょうか?

 

恐らく、かなり理解し難かったと思うのですが・・

 

甘英は、ローマにどこまで肉薄したのか?

地中海 wiki

 

では、班超の命でシルクロードを西に向かった甘英は、どこまでローマに迫っていたのでしょうか?それも、後漢書の記述を参照しますと・・・

 

和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度。

 

「後漢の和帝の9年、西暦97年、都護(階級)班超により大秦(ローマ)に使わされた甘英は、條支(現シリアらしい)に至り、大海を臨む場所に到達する」

 

これを世界地図で確認するとシリアの西にある地中海になります。或いは、パルティア(現イランの北に存在した騎馬民族の国)の南にあったアラビア海かも知れません。仮に地中海だとすると、もうローマ帝国は間近に迫っています。それ、もう一歩だ甘英!!!!

 

甘英、後一歩という所で、ローマ行きを断念その意外な理由は・・

 

しかし、もう一歩でローマという所で、甘英は突如として、ローマ行きを断念して、漢に帰還してしまうのです。その残念な理由としては、以下のような理由が考えられています。

 

一、安息国の船乗りが航海には、長くて3年かかると嘘を教えた。

 

本来ローマに入るにはシリアを経由する陸路もあるのですが、甘英を案内した安息国(パルティア)の船乗りは、ローマには海路でしかいけない上に長いと3年の航海になると嘘を教えたので、余りの航海の長さにビビった甘英はローマ行きを断念した。

 

二、内陸出身の甘英は、海に恐怖心があったので航海を恐れた。

 

そもそも、甘英自体が内陸の出身で海を知らなかったようで、その証拠に、甘英は「海水は塩辛く飲めない」という記録も残しています。こんな記録は、海を知っている人は当たり前過ぎて書くわけもありません。いざ、ローマと意気込んだものの果てがない海路に怯え、結果として、中途半端に目的を断念してしまったのかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

どうして、パルティアの船乗りが甘英に嘘を教えたのかと言うと、ローマと漢の交易品を仲介して、利益を得ているパルティアがローマと漢の直接取引を嫌ったからであると言われています。直接の国交はついに開かれなかったローマと漢ですが、シルクロードと中継貿易者のパルティア人の手を経て、東西の文化と文物は交流しました。

スイーツを国中から求める曹丕

 

それにより、三国志の後漢末期には西域趣味が流行し、曹操(そうそう)はワインを飲んだり曹丕(そうひ)はブドウを食べて詔を出したり呂布(りょふ)はハンバーガーを食べたりと、文化のミックスが発生してゆくのです。

 

しかし、甘英が勇気を出して、船を出し、或いは陸路でローマに到達していたら、中国と西洋の歴史が一変に変わるような大変化が起きたでしょうね・・本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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