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明智光秀の母、於牧の方はどんな人だったの?

2020年1月19日


 

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牧(麒麟がくる)

 

2020年のNHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの主人公は天下の謀反人明智光秀(むほんにんあけちみつひで)です。

ドラマはそんな光秀の謎に満ちた前半生から始まりますが、そこには石川さゆり扮する光秀の母、於牧(おまき)(かた)が登場します。女手ひとつで光秀を育てる

強く優しい母、於牧とはどんな女性だったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀の母は若狭武田氏出身のお姫様?

安土城 織田信長が作らせた城

 

麒麟がくるでは、夫、明智光綱(あけちみつつな)を失ったシングルマザーになっている於牧の方ですが、鈴木叢書(すずきそうしょ)の十三所収「明智系図」によると、於牧の方の

出身は若狭国守護7代当主武田信豊(たけだのぶとよ)の娘で、八代武田義統(たけだよしむね)の妹にあたるとされています。

もし、それが本当なら若狭武田氏は南近江の六角氏や管領細川氏(かんれいほそかわし)とも縁続きですし、兄の武田義統に至っては正室が12代将軍足利義晴(あしかがよしはる)の娘ですから、かなりのお姫様です。

小野小町

 

土岐氏支流の実力者である明智氏は、若狭武田氏にとっても味方につけたい存在だったかも知れませんね。その場合、光秀にも細川家や六角家の血筋が入っている事になり、戦国の名門であるという事になります。

ただし当時は、家臣の娘を養女にして実の娘として縁組する事もあったので、もしかすると於牧の方も、そういう経緯(けいい)だったのかも知れませんが、本当に姫様だったのか?家臣の娘を養女として明智光綱に嫁がせたのか、正確な事は分かりません。

 

異説!於牧の方は光秀の実母ではない?

幕末 魏呉蜀 書物

 

一方で明智光秀の実母は於牧の方ではないという説もあります。それによると、光秀の本当の母は、父である明智光綱の妹の(いち)の方であると言うのです。伝承によると、市は多羅城(たらじょう)山岸信周(やまぎしのぶちか)に嫁ぎ懐妊(かいにん)し、出産の為に明智城に里帰りしました。

やがて市の方は産気づき光秀を産みますが、その頃、光綱と妻の美佐保(みさほ)には子供が無かったので、後に光秀を養子にしたというのです。

明智光秀(麒麟がくる)

 

この説が正しいとすると、光秀の実母は父、光綱の妹という事になり、育ての親が美佐保と、於牧の方はどこにも影も形もない事になります。こちらは、明智氏血脈山岸家相伝系図書にありますが、光秀の前半生は謎につつまれているだけあり、後世の創作の可能性も捨てきれないのだそうです。

 

麒麟がきた

 

八上城で磔にされた話は後世の創作

織田信長

 

麒麟がくるでは、シングルマザーとして若き光秀を優しくも厳しく導く於牧の方ですが、実際には、光秀との間に信憑性(しんぴょうせい)のある逸話は皆無です。

総見記(そうけんき)には、於牧の方が信長の命令で丹波八上城(たんばやがみじょう)に人質として出され、後に八上城主の波多野秀治(はたのひではる)が信長に命を助けてもらう条件で降伏したのに、信長が約束を守らず波多野秀治を殺してしまったので、於牧の方は報復のために(はりつけ)にされ殺害されたという話があり、これが光秀謀反の理由になったという逸話がありますが、これは後世の創作で事実ではありません。

明智光秀

 

それというのも、その頃、明智光秀は丹波八上城を広範囲で包囲して兵糧攻めし、城は落城寸前という状況で、わざわざ光秀の母を人質に送り和睦する必要ななかったのです。

 

まるで渡鬼(わたおに)?姑と折り合いが悪く離縁

 

 

一説によると、於牧の方は光綱の母の是空院(ぜくういん)と折り合いが悪く、結局離縁させられ若狭に戻り、腰元、竹川の叔母の居た西福庵(さいふくあん)に身を寄せたとも伝わります。もしこれが本当なら、光秀はシングルマザーどころか、実の母がいないままに育った事になってしまいます。

kawauso

 

何だか、この話だと大河ドラマというより、橋田寿賀子(はしだすがこ)劇場みたいですね、明智光綱が角野卓造(かどのたくぞう)で於牧の方が泉ピン子で、光綱が実母に頭が上らず、於牧の方がひたすら耐える。そして、少年期の光秀がえなりかずき、って、これまんま渡る世間は鬼ばかりじゃねーか!

細川藤孝

 

一人で盛り上がっていましたが、調べてみると角野卓造ってNHK大河ドラマ女太閤記で、光秀の盟友、細川藤孝(ほそかわふじたか)を演じていたんですね。そこまで無関係じゃないんだコワッ!色々書いてきましたが、於牧の方については、これが真実と呼べるような話は一つも確認できません。もっともだからこそ大河ドラマでは史実に縛られずに伸び伸びと創作できるという側面もあるのでしょう。

 

南無阿弥陀仏とだけ彫られた牧の墓

 

於牧の方の墓は岐阜県恵那市明智町(ぎふけんえなしあけちちょう)にあります。

明智光秀の母と言う事で大河ドラマなどで知名度が高くなり、本当の墓の手前に明智町観光協会(あけちちょうかんこうきょうかい)が建てた碑がいくつかあり、敵は本能寺にありと刻まれていたり、総見記の記述がプレートに書かれていたりします。於牧の方の本当の墓はその奥にあり、高野槙という樹齢四百年の木の横に立っています。

 

墓に名前はなく、南無阿弥陀仏と刻まれているだけのシンプルなものです。

いかにも、かなり昔からあるように見えるこの墓も、残念ながら戦国時代からあるわけではなく、1743年、本能寺の変から160年が経過してから立てられたものなのだそうです。なので、それが本当に於牧の方の墓なのかどうかは不明です。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

明智光秀の半生が分からないというのは光秀の父母についてよく分からないという事でもあります。父母についてハッキリした記録があれば、そこから系図を(さかの)ったり、同族を探ったりする事で、光秀を浮かび上がらせる方法もあるのでしょうが、そこからさえ出来ないので、光秀の前半生は謎のままなのです。麒麟がくるの於牧の方は、残念ながら99%フィクションですが、ここは割り切り、ドラマとして楽しむのが一番でしょう。

 

参考文献:歴史旅人 歴史から消された生涯の謎を徹底解明

参考文献:NHK大河ドラマ歴史ハンドブック麒麟がくる 明智光秀とその時代

 

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麒麟がくる

 

 

 

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