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【麒麟がくる】明智光秀のバックボーン土岐氏を簡単解説

2020年1月20日


 

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明智光秀(麒麟がくる)

 

2020年のNHK大河ドラマは、戦国大名明智光秀(あけちみつひで)の半生にスポットを当てた『麒麟(きりん)がくる』です。光秀と言えば、美濃土岐氏(みのときし)の出身である事が知られていますが、そもそも土岐氏って何者でどんな一族なんでしょうか?ポイントを押さえて簡単に解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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土岐氏は守護のリーダー

 

明智光秀の出身母体である土岐氏は、清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む武家で、宗家は室町期に美濃守護職を歴任しますが、土岐頼芸の時代に斎藤道三によって国を追われました。このような経緯から土岐氏=チキン野郎というイメージが造られましたが、それは世間の勝手な偏見であり、土岐氏は決して自分達をチキンだとは思っていません。

 

幕末 魏呉蜀 書物

 

十六世紀初期に編纂された土岐氏のバイブル「家中竹馬記(かちゅうちくばき)」では土岐氏は自らを誇り、「我らは将軍家に次ぐ名家で、諸守護の筆頭だ文句あるか!」と記されており、非常に高いプライドを持っていた事が分かります。土岐氏は美濃に土着しウヒョ!に励んだ結果、百以上の支流をなします。その中でも室町幕府直臣を務めた奉公衆(ほうこうしゅう)に名を連ねる二十家は、土岐氏でも別格のエリートでした。幕府奉公衆に名前を連ねた光秀は、土岐氏のエリートであり出自に強いプライドを持っていたのです。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

前半生がよく分からず、美濃を長く離れていた可能性もある光秀ですが、だからと言って土岐氏と疎遠(そえん)になっていたわけではなく、美濃の親戚から祈祷(きとう)の依頼を受けると知人の神主である吉田兼見(よしだかねみ)に繋いだりしています。

 

光秀が朝倉氏を頼ったのも土岐氏だから

朝倉義景

 

江戸時代に制作された明智軍記では、弘治二年(1556年)5月、光秀の叔父とされる明智光安(あけちみつやす)の居城、明智城が斎藤義龍(さいとうよしたつ)の軍勢によって攻められて落城。光秀は若く才能があったので、叔父の光安に生き延びて明智氏を再興するように託されて、越前朝倉氏を頼ったとされています。この点については一次史料に証拠がなく真相は不明でしたが、最近、光秀が十年間というまとまった期間、越前長崎の称念寺の門前に住んでいたとする史料が出て来ました。その為、光秀が朝倉義景に仕えたかどうかは不明としても、越前に長期滞在していたのは、ほぼ疑いない事と考えられているのです。

三国志のモブ 反乱

 

それも偶然に光秀が朝倉氏を頼ったのではなく、土岐氏と朝倉氏に血縁の結びつきがあったからでした。美濃守護代だった斎藤利良(さいとうとしなが)は守護の土岐政房(ときまさふさ)と内紛を起こして敗れ1518年に正房の嫡男、土岐頼武(ときよりたけ)と共に越前朝倉氏を頼って逃亡していますが、この斎藤利良の叔母が朝倉氏三代目の朝倉貞景(あさくらさだかげ)の正室でした。つまり、斎藤利良は闇雲にではなく最初から叔母の縁故を頼り、朝倉氏を頼ったのです。

 

麒麟がきた

 

土岐氏に城下町防衛の技術を教えた朝倉氏

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

斎藤利良と共に越前に亡命した土岐頼武の正室も朝倉貞景の娘でした。二重に紡がれた血縁はその後も続き、土岐頼武の息子の頼純(よりずみ)は朝倉氏の後ろ盾を受けて美濃守護に返り咲こうとし、斎藤道三(さいとうどうさん)と交戦しています。また、地元の古老に伝わる伝承では、土岐氏の居城があった大桑城(おおがじょう)に斎藤道三が攻めて来た時には、越前やその他四カ国から援軍が到着し、大桑城に堀を築いたそうです。この話はただの伝承ではなく、実際に現在の大桑城下町には、越前堀、四国堀という堀の遺構が残り、その谷を利用して堀を巡らし城下町を囲む建築方法は、下城戸と呼ばれる越前一乗谷の城下町の建設方法に酷似しています。

お茶を楽しむ明智光秀

 

城下町の作り方という戦国大名としての企業秘密を教えてまで、土岐氏を救援しようとした朝倉氏と土岐氏の関係はかなり深いと言えるでしょう。土岐氏である光秀がそんな関係性を元にして朝倉氏を頼り、十年間生活していたのは頷けるところですね。部下として仕えている証拠はない光秀ですが、朝倉義景の家臣に医学を伝授していた事実が発掘されたり、外部から朝倉氏に関係していた可能性は十分にあります。そんな点を考えると明智軍記が全く創作であるとも言えないかも知れません。

 

土岐氏の誇りが本能寺の変にも影響か?

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

明智光秀の後半生だけを見ると、旗印の桔梗紋(ききょうもん)以外には、土岐氏を物語るアイデンティティは感じられませんが、光秀の内心では、自分は没落した土岐氏を再興しないといけないという使命感が充満していたのかも知れません。実は光秀が自身が土岐氏である事を口にした記録が残っています。それは、興福寺(こうふくじ)東大寺(とうだいじ)戒和上(かいわじょう)という地位を巡って訴訟を起こした時に、裁判官となった光秀が東大寺の代表に言ったとされる言葉で以下の内容です。

 

西遊記巻物 書物

 

私の先祖は忠誠を尽くし、足利尊氏公から領地を与えるとする直筆書を受けたが、戦乱のどさくさで実際には領地を受け取っていない。しかし大昔の事で、現在の権力者である信長公に訴えようにも何とも仕方がなくそのままにしている、古証文というのは役に立たないものだ。

 

光秀の言う先祖とは、初代美濃守護の土岐頼貞(ときよりさだ)に率いられていた桔梗一揆(ききょういっき)と呼ばれる土岐一族の強力な武士団の一員だったようです。ここからも光秀が自分が土岐氏の一員である事を強く意識している様子が窺えます。

 

織田信長

 

明智光秀は、織田信長に一命を賭して仕え、丹波・坂本を領有する国持ち大名になり、織田家中一門の出世頭になりましたが、やがて、出世頭の地位を羽柴秀吉に奪われ、このままでは土岐氏再興が叶わないと愕然(がくぜん)とした時に、本能寺の千載一遇のチャンスが生まれ、信長を討って、土岐氏再興のギャンブルに挑んだのではないでしょうか?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

家名再興ごときで、光秀が謀反を起こすわけがないというのは21世紀の人間の価値観であり、戦国時代を生きた人々にとって家名を守り、再興させる事は十分に一命を賭しうる重大な事でした。ましてや土岐氏のプライドは守護筆頭を自称する程に激烈だったわけですから、主君信長を討つ動機としては、軽いとは言えないのかも知れません。

 

※参考文献 NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代

 

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麒麟がくる

 

 

 

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