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科挙が本格的に整備されるまでの歴史を紹介

2020年2月19日


 

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酒を飲む曹操、劉備、孫権

 

2020年の正月もあっという間に終わり、すでに2月。読者の皆様はいかがお過ごしですか?

三国志大学を目指す曹操

 

2月は高校・大学入試が本格化するシーズンでもあります。筆者も若い時は、一心不乱になり勉強していました。こういう時に思い出すのが、「中国の試験地獄」と言われた科挙(かきょ)です。そこで「はじめての三国志」は科挙について調べてみました。今回は科挙が本格的に運営されるまでを説明します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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科挙が出来るまで

宋代の公務員試験である科挙

 

科挙は今の公務員試験を指します。(ずい)(581年~618年)の初代皇帝の文帝が施行しました。

 

九品官人法を作った陳羣

 

科挙が制定された理由は、中国の歴代王朝の官吏登用制度に問題があったからです。(かん)(前202年~後220年)は「察挙」、魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)(220年~589年)は「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」という官吏登用制度を使用していました。上記のものは名称や制度の細かな部分に違いはありますが、共通しているのは「コネ」で登用されることです。

 

陳羣 九品官人法の書物

 

ましてや、九品官人法の時は1度でもその家柄に低いランクを格付けされたら、そこはずっと低い家柄でした。おかげで実力はあっても出世出来ない人が多くいたのです。隋の文帝はこれを解消するために科挙を施行します。女性以外は誰でも受験出来る実力主義の試験でした。

曹操の悪口を書簡に書く陳琳

ところが隋から(とう)(618年~907年)までの科挙は名ばかりのものであり、大した効果がありません。合格者の多くは、全てとはいいませんけど貴族が占めていました。

 

貴族壊滅 白馬の禍

朱全忠

 

さて、唐の天祐2年(905年)に宰相の裴枢ら貴族約30人が一斉に処刑されました。皇帝の勅命ということになっていましたが、これはあくまで名目でした。この当時の皇帝は操り人形であり実権は全くありません・・・・・・実権を握っていたのは朱全忠(しゅぜんちゅう
)
という男でした。2年後に唐を滅ぼして後梁(こうりょう)(907年~923年)を建国します。

 

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

朱全忠の側近に李振(りしん)という男がいました。科挙合格者が貴族優先であることを非常に憎んでおり、朱全忠がイケイケムードだったので調子に乗って彼をそそのかします。

 

「貴族どもは自分たちを『清流』なんて名乗っています。あいつらの死体を黄河の濁流に投げ込んでやりましょう」

 

最初から唐を滅ぼす気であった朱全忠は李振のくだらない提案に賛成してあげます。こうして科挙をほとんど独占していた貴族は、朱全忠や李振の虐殺により壊滅したのでした。この事件は後世、「白馬の禍(はくばのか)」と呼ばれており貴族社会の終焉を意味します。

 

北宋の趙匡胤の科挙整備

趙匡胤は北宋の初代皇帝

 

唐は天祐4年(907年)に滅亡して五代十国時代(907年~960年)という乱世が約50年続きました。この時期は武人が力を持っていたので、文官に発言権はありません。文官は役所の経理係として置かれていた程度です。それを変えたのが、五代十国時代を統一して北宋(ほくそう)(960年~1127年)を建国した趙匡胤(ちょうきょういん
)
でした。

 

腐敗官僚の左昌

 

彼は五代十国時代の武人の乱暴な行いを見ていたので統一後は、すぐに彼らに名ばかりの名誉職と一生食べるには困らない金を与えて政界から追放処分!武人もそれだけもらえば十分で、あとは興味ありません。彼らは趙匡胤に素直に従います。邪魔がいなくなった趙匡胤は科挙の整備にとりかかりました。今度こそ本当に実力のある人物が受かって欲しいという思いを趙匡胤は政策に込めました。

 

趙匡胤が新たに組み込んだのは「殿試(でんし
)
」という皇帝が自ら面接する試験制度です。皇帝の前だから、みんな下手なウソはつけないはず。趙匡胤はうまいことを考えました。こうして整備された科挙は運用されていき、清(1644年~1911年)の滅亡まで続くのでした。

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が科挙に関しての解説でした。科挙については筆者が「はじめての三国志」に加入した当初にちょっとの期間ですが、解説したことがあります。ただし、ライターとして初心者だったので出来のよい内容とは思っていません。この間、読み返したのですけど、ものすごい恥ずかしいレベルでした。

 

背中から冷や汗が・・・・・・今後は気を付けて執筆します。それでは次回は科挙ってどんな問題が出ているのか特集します。

 

※参考文献

・竺沙雅章『宋の太祖と太宗 変革期の帝王たち』(清水書院 1975年)

・平田茂樹『科挙と官僚制』(山川出版社 1997年)

 

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※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。科挙について「俺はもっと知っている」とコメント出来る読者の皆様はコメント欄にドシドシお願いします。

 

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科挙の歴史

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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