2020年の正月もあっという間に終わり、すでに2月。読者の皆様はいかがお過ごしですか?
2月は高校・大学入試が本格化するシーズンでもあります。筆者も若い時は、一心不乱になり勉強していました。こういう時に思い出すのが、「中国の試験地獄」と言われた科挙です。そこで「はじめての三国志」は科挙について調べてみました。今回は科挙が本格的に運営されるまでを説明します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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科挙が出来るまで
科挙は今の公務員試験を指します。隋(581年~618年)の初代皇帝の文帝が施行しました。
科挙が制定された理由は、中国の歴代王朝の官吏登用制度に問題があったからです。漢(前202年~後220年)は「察挙」、魏晋南北朝時代(220年~589年)は「九品官人法」という官吏登用制度を使用していました。上記のものは名称や制度の細かな部分に違いはありますが、共通しているのは「コネ」で登用されることです。
ましてや、九品官人法の時は1度でもその家柄に低いランクを格付けされたら、そこはずっと低い家柄でした。おかげで実力はあっても出世出来ない人が多くいたのです。隋の文帝はこれを解消するために科挙を施行します。女性以外は誰でも受験出来る実力主義の試験でした。
ところが隋から唐(618年~907年)までの科挙は名ばかりのものであり、大した効果がありません。合格者の多くは、全てとはいいませんけど貴族が占めていました。
貴族壊滅 白馬の禍
さて、唐の天祐2年(905年)に宰相の裴枢ら貴族約30人が一斉に処刑されました。皇帝の勅命ということになっていましたが、これはあくまで名目でした。この当時の皇帝は操り人形であり実権は全くありません・・・・・・実権を握っていたのは朱全忠という男でした。2年後に唐を滅ぼして後梁(907年~923年)を建国します。
朱全忠の側近に李振という男がいました。科挙合格者が貴族優先であることを非常に憎んでおり、朱全忠がイケイケムードだったので調子に乗って彼をそそのかします。
「貴族どもは自分たちを『清流』なんて名乗っています。あいつらの死体を黄河の濁流に投げ込んでやりましょう」
最初から唐を滅ぼす気であった朱全忠は李振のくだらない提案に賛成してあげます。こうして科挙をほとんど独占していた貴族は、朱全忠や李振の虐殺により壊滅したのでした。この事件は後世、「白馬の禍」と呼ばれており貴族社会の終焉を意味します。
北宋の趙匡胤の科挙整備
唐は天祐4年(907年)に滅亡して五代十国時代(907年~960年)という乱世が約50年続きました。この時期は武人が力を持っていたので、文官に発言権はありません。文官は役所の経理係として置かれていた程度です。それを変えたのが、五代十国時代を統一して北宋(960年~1127年)を建国した趙匡胤でした。
彼は五代十国時代の武人の乱暴な行いを見ていたので統一後は、すぐに彼らに名ばかりの名誉職と一生食べるには困らない金を与えて政界から追放処分!武人もそれだけもらえば十分で、あとは興味ありません。彼らは趙匡胤に素直に従います。邪魔がいなくなった趙匡胤は科挙の整備にとりかかりました。今度こそ本当に実力のある人物が受かって欲しいという思いを趙匡胤は政策に込めました。
趙匡胤が新たに組み込んだのは「殿試」という皇帝が自ら面接する試験制度です。皇帝の前だから、みんな下手なウソはつけないはず。趙匡胤はうまいことを考えました。こうして整備された科挙は運用されていき、清(1644年~1911年)の滅亡まで続くのでした。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が科挙に関しての解説でした。科挙については筆者が「はじめての三国志」に加入した当初にちょっとの期間ですが、解説したことがあります。ただし、ライターとして初心者だったので出来のよい内容とは思っていません。この間、読み返したのですけど、ものすごい恥ずかしいレベルでした。
背中から冷や汗が・・・・・・今後は気を付けて執筆します。それでは次回は科挙ってどんな問題が出ているのか特集します。
※参考文献
・竺沙雅章『宋の太祖と太宗 変革期の帝王たち』(清水書院 1975年)
・平田茂樹『科挙と官僚制』(山川出版社 1997年)
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