日本史の超有名人物、織田信長。その人となりを現代に伝える文献が、有名な『信長公記』となります。ですがこれが書かれるよりも前、信長本人が三十代という時期に、「織田信長とはどんな政治家か」という情報を詳細に集めていた国が西欧にあったことをご存知でしょうか?
中南米を手中に収め、さらなる世界制覇の夢に燃えていた十六世紀の大帝国、スペインです。時の世界帝国にとって、織田信長とはどういうふうに見えていたのでしょうか?
そしてもし「本能寺の変」がなかったら、日本史は、いや世界史は、どのようになっていたのでしょうか?
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この記事の目次
宣教師たちは布教に来ていただけではない?スペインの「情報機関」としてのイエズス会
織田信長に直接面会し、その人となりに触れ、「尾張の国王であるノブナガは若いが優秀な人物で、きっと助けになる!」とスペイン本国に推薦していたのは、イエズス会の宣教師ルイス=フロイスです。このイエズス会というのは、単なるキリスト教の布教団体というだけではありません。
宗教改革に吹き荒れる当時のヨーロッパで、カソリック圏のリーダーたらんと燃えるスペインとしっかり結びついた、政治的な意義もある集団でした。その証拠に、イエズス会の創始者であるロヨラは軍人の出身です。彼は、まさに軍隊で教わった階級制や報告・連絡のシステムを応用して、イエズス会を結成しました。
宣教師たちを、南米の奥地や太平洋の島々やインドの奥地にまで派遣し、彼らからあがってくる情報を集積することで、カソリック圏のリーダー格であるスペインの国益にも貢献していたという背景があります。今風にいえば、イエズス会は、宗教団体の体裁をとりつつも半ばスペイン国家公認の「情報機関」というところでしょうか。
「織田信長はヨーロッパ型の専制君主となり得る人物」と高評価!
そのイエズス会から日本に派遣されたルイス=フロイスも、自分がやるべき役目をよく理解していたようでした。信長に会った時も、彼はキリスト教の布教という宗教問題をいきなり持ち出そうとはしませんでした。あくまで西欧の諸事情や技術のことを話題に持ち出し、信長の眼を海外に開かせようとしていた模様です。
どうもルイス=フロイスとしては、「キリスト教の話はずっと後でもよい、まずはこの織田信長に日本国王になってもらい、カソリック圏(特にスペイン)の東アジアにおける有力な友好国になってもらうのが先だ」と現実的な路線をとっていたフシがあります。ルイス=フロイスの見立てはアタリでした。意気投合した織田信長は、西欧の事情や技術にたいへんな興味を持ち、スイスイと知識を吸収していきます。
ルイス=フロイスとしても、このような人物を発見したことをとても喜んでいたようで、本国に対して「ノブナガは日本の大名たちに絶対服従を求め、実際にそのような支配体制ができあがりつつある。彼はヨーロッパの強国の専制君主のような人物に大成するだろう」と熱く推薦していたようです。
もし本能寺の変が起こらなければ、日本は「鎖国」とはまったく反対のグローバル国家になっていた?
その後の織田信長は、ルイス=フロイスの期待通りか、あるいはそれ以上の勢いで「日本の国王」への道を進んでいきます。ところが、織田信長本人にもイエズス会の宣教師たちにも、まったく誤算としか言いようのない事件が起こりました。
「本能寺の変」です。
ここで織田信長が急死した後、天下人となった豊臣秀吉は、宣教師たちには冷たい存在でした。
さらにその後に天下統一を成し遂げた徳川家康とその一族は、いわゆる鎖国体制へと舵を切っていきます。
もし「本能寺の変」が起こらなかったら?
織田信長が天下統一後にはどのような政治体制を構想していたのかは、残念ながら伝わっておりませんが、彼の言動からして、「鎖国」ではなく、世界情勢を常に分析しながら進んでいくグローバル主義の国家運営をとったのではないでしょうか。おそらくは「アジアの中の強国」としての地位を固めて、西欧列強に支配されるのではなく、対等な交渉相手と見られるような国づくりを目指したのではないでしょうか。
いわゆる「富国強兵」で西欧列強についていこうとがんばった幕末明治日本の構想を、三百年ほど先取りした発想だったことになります。またルイス=フロイスたちとの交流路線のままで進んでいたとしたら、ちょうど東南アジアや南太平洋にも植民地を作り始めていたスペイン帝国と連携を取り、アジアにおける世界戦略を左右するキープレイヤーになる道をとっていたかもしれません。
つまり、アジアにおけるスペイン帝国の同盟者としての道を選んだかもしれない!織田家率いる日本がスペイン帝国と大同盟をしていたら、日本史だけでなく、世界史も大きく変わったのではないでしょうか?
さらにアジアに強力な仲間を見つけたスペインが、起死回生の復活を成し遂げ、その後の「イギリスにコテンパンに食いつくされていくスペインの没落時代」もなかったかもしれません!
現代のグローバル言語は、英語ではなく、スペイン語だったかもしれませんね!
まとめ:そうはいってもやはり「本能寺の変」は必然だった?あまりにも過激すぎた信長の構想
織田信長がもし生きていたら、日本はこんなふうになっていたろう、あんなふうになっていたろうと想像するのは、歴史ファンにとって楽しいことですね。それだけの強烈な存在感が、織田信長にあるからと言えるでしょう。
ですがいっぽうで、冷静に考えると、「それほどまでに日本史上でも傑出した個性」だったからこそ、本能寺の変における急死を招いた、という見方もできます。
あるいは、これほどスケールの桁違いな人物は、「『本能寺の変』がなかったとしても、別のタイミングで別の誰かに殺されていたのでは?」というあたりでしょうか。
戦国ライターYASHIROの独り言
織田信長の覇業が完成しなかったことも、そして徳川家康という「日本人らしい」政治家が最終的には成功したのも、もしかしたら「日本史の必然」といえるのかもしれませんね。
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