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三好三人衆とはどんな人?信長に盾突くしぶとい戦国三連星

2020年3月25日


 

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三好三人衆

 

○○(まるまる)三人衆というと漫画や小説で定番のカテゴリです。三人衆でなくても三人トリオとか、三連星とか共通の目的意識を持つ3人を(くく)ってこう呼びます。そんな三人衆の元祖が戦国時代に活躍した三好三人衆、三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友通(いわなりともみち)です。

 

松永久秀

 

彼らは最初の天下人、三好長慶(みよしながよし)の重臣として、松永久秀(まつながひさひで)と共に三好家の繁栄の為に活躍しますが三好長慶の死後には迷走して久秀と喧嘩(けんか)を繰り返します。

馬に乗って戦う若き織田信長

 

 

やがて三人衆は、上洛してきた織田信長にしぶとく抵抗し滅ぼされるのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三好三人衆のプロフィールを紹介

京都御所

 

最初に、三好長逸、三好宗渭、岩成友通3名の簡単なプロフィールを紹介しましょう。

 

三好三人衆の三好長逸

 

・三好長逸は、三人の中でも長老格で長慶からみると従叔父にあたり、最初から長慶を支え、細川晴元(ほそかわはるもと)、足利義輝、別所就治(べっしょなりはる)波多野晴通(はたのはるみち)等と戦い、長老らしい協調性で新参の松永久秀とも共闘して山城、摂津、河内、丹波、大和の三好家の勢力圏で松永久秀と共に訴訟(そしょう)の取次ぎ、長慶の補佐などを扱う側近・申次(もうしつぎ)として長慶に重用(ちょうよう)されて同名衆(どうめいしゅう)にも列せられました。

三好三人衆の三好長逸

 

・三好宗渭は三好政長(みよしまさなが)の子です。父は細川晴元に仕え三好長慶の父を殺した張本人であり、三好長慶と激しく争います。しかし父は、長慶に江口の戦いで討たれ、宗渭は父の仇になった長慶に徹底反抗、長慶を暗殺しようとしたり、讃岐(さぬき)香西元成(こうざいもとなり)や丹波の波多野晴通(はたのはるみち)と通じて、相国寺で松永久秀兄弟と戦いますが勝てず永禄(えいろく)元年9月には長慶の家臣になります。

 

以後は長慶の勢力拡大に貢献し、永禄5年の畠山高政攻めに参陣して武功を挙げ重鎮(じゅうちん)に上り詰めます。

三好三人衆の三好長逸

 

・岩成友通は、三好家とは無関係な大和の土豪の出身ですが、天文(てんもん)20年以後、三好長慶に引き立てられて奉行(ぶぎょう)になりました。同じく摂津の土豪の出身だった松永久秀とは境遇がよく似ています。永禄元年の将軍山城占拠(しょうぐんやまじょうせんきょ)に参戦し、永禄5年に六角義賢(ろっかくよしかた)が京に侵入した際は足利義輝の警護を行います。長慶の死後、三好三人衆の1人として長慶の甥の三好義継(みよしよしつぐ)の後見役を務めました。

 

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

このように、三人は三好長慶に仕えるまでは、敵味方だったり、身分が大きく違うなど、余り接点がないのですが、長慶というカリスマにより、機械の歯車のように一致協力して三好家の繁栄に尽力していました。

 

永禄の政変以後の松永久秀との対立

周りに恐れられていた松永久秀

 

永禄7年7月4日、三好長慶が死去。三好三人衆と松永久秀は長慶の甥で幼少の三好義継を当主とし補佐する事になります。しかし、翌年の5月19日に三好三人衆と久秀の子、松永久通、三好義継が将軍足利義輝を暗殺した永禄の政変では、松永久秀は参加せず、むしろ足利義輝の弟の覚慶(かくけい)、後の足利義昭を保護しています。

 

その事があってより、松永久秀と三好三人衆には不協和音が生じて対立が深まっていきました。永禄8年11月16日、三好長逸は、三好宗渭と石成友通、三好康長(みよしやすなが)とともに飯盛山城(いいもりやまじょう)に入り、義継の奉行である長松軒淳世(ちょうしょうけんじゅんせい)を殺害し、三好義継を高屋城に移してから説得し、松永久秀討伐の大義名分を得ます。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

こうして、三好三人衆と松永久秀は永禄9年には交戦状態に突入しました。三好三人衆は本国阿波(あわ)を支える篠原長房(しのはらながふさ)と義継の大叔父・三好康長に加え、大和支配を巡り、松永久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦います。一方の久秀は畠山高政(はたけやまたかまさ)安見宗房(あみむねふさ)らと結んで三人衆に対抗しました。

 

麒麟がくる

 

松永久秀と三好義継を圧倒し足利義栄を奉じる

 

三好三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を上芝(うえしば)の戦いで撃破。さらに、筒井順慶と結んで松永久秀の本拠地である信貴山城(しぎさんじょう)多聞山城(たもんやまじょう)を包囲、大和の松永勢力を駆逐していきますが、両者共に決め手が無く争乱は長期化します。

 

この頃、三好三人衆の1人、三好宗渭が故足利義輝の従弟の足利義栄(あしかがよしひで)摂津越水城(せっつこしみずじょう)に迎え主君としますが、これが痛恨のミスになります。三好三人衆に(ないがし)ろにされたと感じた主君の義継が永禄10年2月に久秀の下へ逃亡したのです。同じく不満をもった三好康長も三人衆から離反しました。これで、勢いを取り戻した松永久秀は、三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺(やまととうだいじ)を攻撃し奈良の大仏が焼亡する東大寺大仏殿の戦いが起きています。

廃仏毀釈

 

しかし、戦いの10日後には長逸の嫡男・生長と名を改めた三好長虎(みよしながとら)山城普賢寺谷(やましろふげんじだに)で松永方の軍勢に勝利、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進みます。特に足利義栄を摂津普門寺城(せっつふもんじじょう)将軍宣下(しょうぐんせんげ)を受けさせ、官位を三好義継並みに引き上げた事が、戦局を三好三人衆に有利にしていたのです。

 

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し形勢逆転

天下布武を唱える織田信長

 

窮地に陥ったかに見えた松永久秀ですが、局面打開の大勝負を仕掛けていました。永禄11年9月、尾張と美濃を制した織田信長が6万と号する大軍を擁し永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始します。松永久秀は永禄の政変の時、命の危険にあった義昭を(かば)っておりすでに信長と書簡を交わし連携を深めていたのです。

爆死する松永久秀

 

三好長逸は4月に美濃三人衆稲葉良通(いなばよしみち)に信長への取り次ぎを依頼しますが、初動で出遅れ遅れを取りました。この信長の動きに対し、三好三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢(ろっかくよしかた)や紀伊の国人衆、高野山や筒井順慶と結んで徹底して対立する姿勢を示します。

 

逆に三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀は信長に恭順します。これは決定的でした。信長の上洛を受け六角義賢は観音寺城の戦いで敗れて近江を追われます。さらに、将軍に擁立した足利義栄も背中に腫物が出来て病床に伏し上洛出来ず急死。これにより国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出し勢力を失います。

 

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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