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本圀寺を襲撃するが・・
上洛した信長ですが、美濃に一時帰還、その時、足利義昭は明智光秀を中心とする近江、若狭の僅かな国衆に守られて本圀寺にいました。巻き返しを図る三好三人衆は、これを勝機と見て美濃を信長に追われた斎藤龍興も加えて襲撃しますが、織田方は明智光秀等が奮戦、小さな本圀寺は容易に落城しません。
日没を迎えても三好三人衆は本圀寺を落とせず、一旦退いて翌日の攻撃に備えます。しかし、翌日には摂津方面より織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの3000人の軍勢が到着、三人衆は桂川で迎撃しますが激戦の末に敗北。これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまいました。徐々に三好三人衆からツキが逃げていく様子がわかります。
野田城・福島城の戦いで織田軍を撃退
元亀元年、織田軍が畿内から移動した隙を突き、三好長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめ6月には、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めます。
三人衆軍は摂津中嶋に進出し、野田城・福島城を築城して籠城します。当時この地域は西側が海、北・南・東は川に囲まれた島のような場所で三人衆はそのような場所に堀を掘り、壁をつけ櫓を建てて防備を固め、さらに細川昭元や紀伊の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も到着し総数1万3千までになりました。
織田軍は自軍30000人さらに雑賀根来の鉄砲衆20000人を動員し、付城を築いて、野田城・福島城を包囲し、一日中、双方で鉄砲数千挺を撃ち合います。数と物量に勝る織田軍は有利で、三好三人衆は窮地に追い込まれますが、ここで摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃し石山合戦が始まります。
これにより、三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方の後方から浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げます。しかし、辛うじて本願寺に救われた三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれて和睦しました。
頼みの武田信玄が病死、三好三人衆全滅
元亀二年、和議は破棄され、三好三人衆は、反織田包囲網に参加。摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携し信長包囲網の一角を担います。しかし、その矢先、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害。家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えます。
元亀4年、信長と不和になった足利義昭自身が決起。これに信長の筒井順慶優遇に不満を持つ、三好義継・松永久秀らが呼応、三好一族の足並みが反織田で一致します。いよいよ、悲願の織田追放が成るかと期待した矢先、武田信玄が上洛途中病死しました。
反織田方にとって信玄の死は致命的で、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に崩壊。足利義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で討ち死。浅井長政と朝倉義景も電撃的に織田軍に討たれ、三好義継は足利義昭を庇った事で若江城を攻められ部下に殺害され、松永父子は信長に多聞山城を差し出し降伏します。
生き残りの三好長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できるのを最後に父子共に行方不明。三好宗渭も病死しました。三好三人衆の末路はハッキリ確認できないものの、その後歴史の表舞台に出ず、力を失ったのは間違いありません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
三好三人衆は、敵味方がくるくると変わり、書き手としては面倒くさい人々です。しかし、負けても負けても信長に挑み、敵の敵は味方の精神で、一度は信長を打ち破った根性は見上げたものですね。
参考文献:松永久秀と下克上 平凡社
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