佐久間信盛は大河ドラマでも脇役扱いで、晩年には役立たずの烙印を信長に押され高野山に追放される事で有名です。しかし、彼こそは織田家に仕えて30年、一貫して信長を支え続け一時は織田家最強の軍団を任され、信長の後継者、織田信忠の補佐役まで勤めた織田家重臣の筆頭だったのです。そんな、信盛がどうして人生の退却戦では失敗したのかを解説してみましょう。
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信長家臣で一番の古株「退き佐久間」
佐久間信盛は大永八年(1528年)尾張国愛知郡山崎に生まれ若くして織田信秀に仕えます。やがて信盛は幼少の織田信長の重臣としてつけられ平手政秀が諌死してからは、信長の家臣で一番の古株になります。
信秀の病死後、尾張は今川義元に寝返る者や、信長の弟の信勝につくものなどグチャグチャに乱れますが、佐久間信盛は一貫して信長を支え少しも揺らぎませんでした。
織田信長が弟の信勝と激突した稲生の戦いでも、信長方として戦い信勝を撃破し、以後は家臣団の筆頭に挙げられ退却戦を得意とした事から退き佐久間とあだ名されました。このように若い頃の佐久間信盛は一貫して信長を支える忠臣でした。
織田家を支えた華麗な戦歴
織田家に30年仕えた佐久間信盛の歴史は、そのまま信長の元での織田家躍進の歴史でした。永禄三年の桶狭間の戦いでは前線の善照寺砦に入り、手柄を立てて鳴海城を与えられ、永禄十一年の観音寺の戦いでは六角義賢・義治父子と戦い箕作城を落とす功績を挙げます。
浅井長政が信長と敵対した時には、近江永原城に柴田勝家と配置され野州河原、姉川、志賀の陣に参加、元亀二年9月には、比叡山焼き討ちでも功績を立て近江国栗太郡を与えられています。
元亀三年4月、三好義継と松永久秀・久通父子が足利義昭に叛き、畠山昭高の交野城を包囲すると、信盛が救援に派遣され三好勢を退却に追い込みます。
武田信玄が織田家と絶縁した時には、岐阜城に2000名を率いて留守居役として美濃の防衛を固めています。その後も、三方ヶ原では、平手汎秀、水野信元と共に3000の兵を率いて徳川家康の応援に向かい、六角氏との戦いにも従軍。
次には三好義継を討ち取り、長篠の戦いにも従軍、石山本願寺との戦いでは七国の与力を付けられ5万の軍勢で畿内方面軍団長として持久戦を戦うなど戦歴は華麗の一言です。
外交官としても有能な信盛
佐久間信盛は外交官としても有能でした。永禄十年には信長の娘徳姫の供をして岡崎城まで送り徳川家康の長男松平信康に嫁がせる事に成功、家康と領地を接する西三河を任されます。
さらに永禄十一年の信長上洛には畿内行政官の五人の一人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方につけます。その後も、松永久秀が大和の領有を巡り筒井順慶と揉めると、両者を和睦させたりして畿内静謐に努力し、天正元年、信長と不仲になった足利義昭との和睦交渉にも織田信広と細川藤孝と共に出席しています。
このように佐久間信盛は文武両道であり、決して勤続年数が長いだけの無能な部将ではないのです。
思わず出てしまった本音がノッブをキレさせる
このように、合戦でも外交でもそつがない信盛ですが、勤続30年ではやはりポツポツと粗が出ていました。それも勤続20年を過ぎた辺りから粗が強くなっていきます。
一番顕著なのは、天正元年8月の一条谷の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景の追撃を怠った時の言い訳でした。信長の厳しい叱責に対し信盛は涙を流しつつ、
「そうは言われても、我々のような優秀な家臣を殿はお持ちになれますまい」とムキになり口応えしたのです。
この言いわけが失敗を正当化するように聞こえ信長は猛激怒、信盛は厳罰を受けそうになりますが、他の家臣が必死に信長を宥めたのでお説教だけで済みました。しかし、信長はかなり根に持つ性格で、この時の信盛の口応えを生涯忘れませんでした。
佐久間信盛は、信長より六歳年上で幼少より信長を知っていました。その気安さが、こんなに長年、文句も言わずにあなたにお仕えしている有能な家臣は、早々手に入りませんよという、やや上から目線の言い訳になったのです。
でも、信長はすでに尾張の田舎大名ではなく、天下人に王手を掛ける存在です。友達テイストでなあなあで来られるのは、威厳の面でも君臣の別の面でもスゴく嫌でした。
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