【麒麟がくる】佐久間信盛はどんな人?退却の名人がしくじった人生

2020年3月25日


 

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佐久間信盛

 

佐久間信盛(さくまのぶもり)は大河ドラマでも脇役扱いで、晩年には役立たずの烙印(らくいん)信長(のぶなが)に押され高野山(こうやさん)に追放される事で有名です。しかし、彼こそは織田家に仕えて30年、一貫して信長を支え続け一時は織田家最強の軍団を任され、信長の後継者、織田信忠(おだのぶただ)の補佐役まで勤めた織田家重臣の筆頭だったのです。そんな、信盛がどうして人生の退却戦では失敗したのかを解説してみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信長家臣で一番の古株「退き佐久間」

織田信長

 

佐久間信盛は大永(たいえい)八年(1528年)尾張国愛知郡山崎に生まれ若くして織田信秀に仕えます。やがて信盛は幼少の織田信長の重臣としてつけられ平手政秀が諌死(かんし)してからは、信長の家臣で一番の古株(ふるかぶ)になります。

 

今川義元

 

信秀の病死後、尾張は今川義元(いまがわよしもと)に寝返る者や、信長の弟の信勝(のぶかつ)につくものなどグチャグチャに乱れますが、佐久間信盛は一貫(いっかん)して信長を支え少しも()らぎませんでした。

 

足軽b-モブ

 

織田信長が弟の信勝(のぶかつ)と激突した稲生(いなお)の戦いでも、信長方として戦い信勝を撃破し、以後は家臣団の筆頭に挙げられ退却戦を得意とした事から退()き佐久間とあだ名されました。このように若い頃の佐久間信盛は一貫して信長を支える忠臣でした。

 



織田家を支えた華麗な戦歴

織田信長に信頼される佐久間信盛

 

織田家に30年仕えた佐久間信盛の歴史は、そのまま信長の元での織田家躍進の歴史でした。永禄(えいろく)三年の桶狭間(おけはざま)の戦いでは前線の善照寺砦に入り、手柄を立てて鳴海城(なるみじょう)を与えられ、永禄十一年の観音寺(かんのんじ)の戦いでは六角義賢(ろっかくよしかた)義治(よしはる)父子と戦い箕作城(みづくりじょう)を落とす功績を挙げます。

 

浅井長政(あざいながまさ)

 

浅井長政(あさいながまさ)が信長と敵対した時には、近江永原城に柴田勝家(しばたかついえ)と配置され野州河原(やすがわら)、姉川、志賀の陣に参加、元亀(げんき)二年9月には、比叡山(ひえいざん)焼き討ちでも功績を立て近江国栗太郡(くりたぐん)を与えられています。

 

松永久秀

 

元亀三年4月、三好義継(みよしよしつぐ)と松永久秀・久通(ひさみち)父子が足利義昭に(そむ)き、畠山昭高(はたけやまあきたか)交野(かたの)城を包囲すると、信盛が救援に派遣され三好勢を退却に追い込みます。

真田丸 武田信玄

 

武田信玄が織田家と絶縁した時には、岐阜城に2000名を率いて留守居役として美濃の防衛を固めています。その後も、三方ヶ原では、平手汎秀(ひらてひろひで)、水野信元と共に3000の兵を率いて徳川家康の応援に向かい、六角氏との戦いにも従軍。

 

本願寺顕如

 

次には三好義継を討ち取り、長篠(ながしの)の戦いにも従軍、石山本願寺との戦いでは七国の与力を付けられ5万の軍勢で畿内方面軍団長として持久戦を戦うなど戦歴は華麗の一言です。

 

織田信長スペシャル

 

外交官としても有能な信盛

 

佐久間信盛は外交官としても有能でした。永禄十年には信長の娘徳姫(とくひめ)の供をして岡崎城まで送り徳川家康の長男松平信康(まつだいらのぶやす)(とつ)がせる事に成功、家康と領地を接する西三河を任されます。

 

細川藤孝

 

さらに永禄十一年の信長上洛には畿内行政官の五人の一人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方につけます。その後も、松永久秀が大和の領有を巡り筒井順慶(つついじゅんけい)()めると、両者を和睦させたりして畿内静謐(きないせいひつ)に努力し、天正元年、信長と不仲になった足利義昭との和睦交渉にも織田信広と細川藤孝と共に出席しています。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

このように佐久間信盛は文武両道であり、決して勤続年数が長いだけの無能な部将ではないのです。

 

思わず出てしまった本音がノッブをキレさせる

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

このように、合戦でも外交でもそつがない信盛ですが、勤続30年ではやはりポツポツと粗が出ていました。それも勤続20年を過ぎた辺りから(あら)が強くなっていきます。

 

朝倉義景

 

一番顕著なのは、天正元年8月の一条谷の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景の追撃を怠った時の言い訳でした。信長の厳しい叱責に対し信盛は涙を流しつつ、

 

「そうは言われても、我々のような優秀な家臣を殿はお持ちになれますまい」とムキになり口応えしたのです。

 

キレる織田信長

 

この言いわけが失敗を正当化するように聞こえ信長は猛激怒、信盛は厳罰を受けそうになりますが、他の家臣が必死に信長を宥めたのでお説教だけで済みました。しかし、信長はかなり根に持つ性格で、この時の信盛の口応えを生涯忘れませんでした。

山に追放され亡くなる佐久間信盛

 

佐久間信盛は、信長より六歳年上で幼少より信長を知っていました。その気安さが、こんなに長年、文句も言わずにあなたにお仕えしている有能な家臣は、早々手に入りませんよという、やや上から目線の言い訳になったのです。

 

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

でも、信長はすでに尾張の田舎大名ではなく、天下人に王手を掛ける存在です。友達テイストでなあなあで来られるのは、威厳の面でも君臣の別の面でもスゴく嫌でした。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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