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この記事の目次
佐久間信盛特に反省せずマイペース勤務を続ける
何とか、叱られるだけで済んだ佐久間信盛ですが、当人はそんなに深刻に受け止めなかったようです。短気な殿の気まぐれな癇癪程度に軽く考えていたのでしょう。天正四年5月、石山合戦で戦死した司令官塙直政の後任で、佐久間信盛は前線勤務を命じられます。信長の期待は並々ならないもので、信盛は畿内方面軍総司令として、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊といった7ヶ国の与力をつけられ、5万の大軍を任されます。
しかし、退き佐久間の異名のせいか信盛は攻めには不向きで、4年間以上、積極的な行動がなく、ひたすら持久戦に終始しました。
これはこれで、こちらの損害を出さないという立派な戦術かも知れませんが、同じ頃に、越前を攻略していた柴田勝家や、丹波攻略で奮闘していた明智光秀、因幡攻めをしていた羽柴秀吉のような信盛より新参の部将の戦いに比べ、本願寺相手の信盛の戦術は非常に鈍重に信長には映りました。それに信盛は他の部将と違い、戦術面をどうすればいいか?信長に書状でお伺いを立てるという報連相もあまりなかったようです。良くない慣れですね、これはいけない・・
(お前には5万の兵力をやっとんのだぞ、なに、ちんたら遊んどんじゃ、ごるぁ?)
信長の血圧は、倍々ゲームで上がり続け、信盛の立場は急速に悪くなります。
石山本願寺の降伏後 突如高野山に追放される
天正八年(1580年)3月1日、佐久間信盛は、朝廷より本願寺へ派遣された講和の勅使の目付として松井友閑と共に同行を命じられ、さらに、8月2日、本願寺教如の本願寺退去を検視する勅使に友閑と共に再び同行。こうして本願寺との10年続いた戦に終止符が打たれます。
やれやれ、これで戦争漬けの畿内もしばらく平和、佐久間殿にも褒賞があろうと、織田家の重臣が思っている最中、8月25日、佐久間信盛は、突如信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられました。
折檻状は、一乗谷の口ごたえから、三方ヶ原で味方が戦死したのに信盛の部下は一人も死ななかった事、必要な家臣を召し抱えずに合戦では与力だよりでケチで卑怯だという事。そして、織田家に仕えて三十年で、さすが佐久間信盛と賞賛される手柄がない事を理由に信盛を詰り、今すぐ、どこかで敵を打ち破るか、討ち死にして面目を立てるか?
それも無理なら頭を丸め高野山に入り、許しを待てと書かれていました。佐久間信盛と信栄の父子は、信長の怒りの強烈さに意気消沈し、領地を棄てて高野山に入ったのです。それから2年後、信盛は失意のうちに世を去ります、55歳でした。
戦国時代ライターkawausoの独り言
勤続30年の佐久間信盛を突如として高野山に追放した信長の行動は、信盛を継いで畿内方面軍司令官になった明智光秀にも影響を与えたと明智軍記にはあります。手柄を立てても、古草履のように棄ててしまう信長を恐れ、本能寺の原因の一つになってしまったというのです。
確かに信盛も悪い所がありますが、いきなり折檻状一枚で重臣を解雇してしまう信長の行動も確かに問題がありますね。
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