徳川家康と言えば、関ヶ原の戦いで勝利し、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして江戸300年の泰平を開いた江戸幕府の開祖です。一説には鯛のテンプラを食べて食あたりで死んだ等と言われますが、健康オタクの家康の普段の食事は極めて質素でした。
しかし健康オタクらしからぬ食べ物も家康は食しています。それが本能寺の変後に九死に一生を得た後に味わった鰹の塩辛でした。
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本能寺の変を切っ掛けに知った鰹の塩辛
家康が鰹の内臓の塩辛という高血圧一直線な食べ物を知ったのは、本能寺の変の後の事です。堺見物の途中に、信長横死の知らせを受けた家康はただちに見物を切り上げて、伊賀越えを決行、途中に集団で襲ってくる落ち武者狩りの野武士を時には武力で威嚇、または金品をバラまく事で切り抜け、伊勢の浜から舟に乗り岡崎まで逃げ戻ります。
舟に乗り込んだところで安心した家康は急に腹が減り、船主の角屋七郎次郎家が出したのが鰹のたたきであったと「貞享書上」という史料にはあるようです。現在の鰹のたたきは、鰹を節に切って串を差し表面を火で炙り、鰹の旨味であるアミノ酸を肉の中に閉じ込めた食品ですが、戦国時代の鰹のたたきは、鰹の内臓の塩辛であったようで、現在の呼び名では高知県で酒盗と呼ばれているものです。
酒盗は、鰹の胃と腸をよく洗って辛口では20%、甘口では10%程度の塩を使用して漬け込む発酵食品で、酒、みりん、蜂蜜などで味を調え、半年から一年以上漬け込んでから出荷される食品で、内臓に含まれる消化酵素によって発酵し発酵が進んだものを茶漬けにすると、とろける程になり酒が進んで盗まれたように減る事から酒盗と呼ばれました。
1787年成立のことわざ集「譬喩尽」にも「鰹の叩。相州の名物塩辛也」とあるそうです。
鰹の塩辛で出世した角屋
家康は命を拾った窮地で食べた鰹の塩辛が余程気に入ったようで、角屋が度々鰹の塩辛を進上すると、家康は上機嫌で鰹の塩辛でご飯を食べたそうで、角屋は家康側近が代筆したお礼状を今でも持っていると貞享書上に出てくるとか。塩辛ですからご飯に乗せて、お湯をかけてサラサラいけたでしょうね。酒の供として抜群の相性を持つ酒盗ですが、家康は酒を飲むものの、節制に勤めていたようですから、飯のタネとしての効果が大きかったでしょう。ケチな家康としては、塩辛があれば、オカズも減らせて経済的、一石二鳥という思惑もあったのかも知れません。
さらに角屋は、鰹の塩辛で家康の機嫌をつかみ、その手厚い保護を受けて国際貿易を大々的に展開し、角屋七郎次郎の孫、角屋七郎兵衛栄吉はベトナムまで船を出し、現地の王族グエン氏の娘を妻にしました。
ところが、栄吉がベトナムにいる間に日本では鎖国令が出て、国外に出ていた日本人は帰国する事が出来なくなります。しかし鎖国下にあっても栄吉は伊勢の家族や親類には書状で連絡を取り続け、伊勢神宮や松阪城下の寺社へも寄進も続けたそうです。
また、栄吉は、安南中部の町・会安にあった日本人街の長も務め1672年に現地で没しました。すべてがすべて鰹の塩辛のお陰だとは思いませんが、角屋の商売繁盛に鰹の塩辛が影響していたのは疑いない事です。
家康の長寿の秘密は鰹の塩辛?
鰹の塩辛にはビタミンDビタミンB12、そしてナトリウム、亜鉛という栄養素が含まれています。この中で最も多いのがビタミンDで、こちらは免疫機能を強化し、風邪やインフルエンザ、気管支炎や肺炎などの感染症を予防します。
戦国時代は、もちろん抗生剤やワクチンがありませんから、老齢に達してから感染症に罹って呆気なく亡くなる事も多かったのです。家康は鰹の塩辛から、ビタミンDを摂取していたから感染症に強い免疫があり長寿に繋がったかも知れません。
感染症で死んだと見られる戦国大名には、斎藤義龍、織田信秀、大友宗麟等がいて、斎藤義龍や大友宗麟の死は周辺国の勢力状況に大きな影響を与えています。中高年で、感染症で死なないというのは、戦国大名として重要な事でした。
また、塩辛に多く含まれる亜鉛は生殖機能を高めるので、60歳を過ぎても子供を造っていた家康の絶倫にも、鰹の塩辛が影響したかもしれません。
気になるのは塩辛に多いナトリウムです。上杉謙信は酒豪の上に酒の肴に梅干しをなめるという辛党で、動脈硬化まっしぐらの生活を続け脳溢血で倒れましたが、家康は塩辛以外にも、佃煮も好物でカリウムを多く含む、わかめやひじきも食べていたと推測され、取り過ぎた塩分はカリウムと一緒に排出され動脈硬化とは無縁だったかも知れません。
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