関ヶ原の戦いで徳川家康は史上最高のファイトマネーを手にしていた

2020年4月5日


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関ヶ原の戦いで徳川家康(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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譜代大名に対してもケチな家康

江戸城

 

個人的にも400万石の莫大な土地を得た家康ですが、徳川恩顧の譜代大名へ封地も少ないものでした。関ケ原の戦いまでで家康の家来で10万石を与えられたのは、井伊直正、榊原康政(さかぎばらやすまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)の3名しかいません。

本多忠勝

 

天下を獲った後は、少しはマシになったかというと、徳川四天王の筆頭、井伊家に与えられた所領は30万石でした。400万石の1/10も与えないとは、ライバルの石田三成が島左近に自分の石高19万石から2万石与えたのに比べると随分ケチです。

 

もっとも、秀吉の引き立てで成り上がった三成は、それ相応の待遇で新しく家臣を抱える必要がありましたが、三河に何百年も地盤を持つ徳川家康の場合には、家臣団はすでに何百年も仕えて代を経ていて、そんなに多額の恩賞を与えなくてよかった事もあります。ただそれにしても、家康はかなりケチだと思えますけどね。

 



戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

関ケ原の戦いは本来、家康とは無関係の豊臣家の内輪もめでした。しかし、後々の禍を断とうと石田三成が家康打倒の兵を挙げた事で、戦いに巻き込まれる事になり、うまい事反三成勢力を自分の味方につけて数時間で勝利し、実際には戦争に参加していない豊臣秀頼や毛利輝元の石高を大幅に削れるという濡れ手に粟の大勝利になりました。この勝利なくして、後の徳川の泰平はなかったのです。待った甲斐があり、家康に転がり込んだ幸運とも言えますね。

 

参考文献:お金の流れで見る戦国時代

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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