諸葛亮の奇襲に安定対応!真の孔明キラーは曹真だった


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孔明と司馬懿

 

三国志の主人公、諸葛孔明(しょかつこうめい)、彼の最大のライバルは司馬仲達(しばちゅうたつ)です。

 

 

しかし、これは三国志演義の話で正史における孔明キラーは曹真(そうしん)でした。曹真こそは、北伐を二次まで抑え込み、逆に蜀に攻め込んで滅ぼそうとした諸葛亮の強敵でした。


夏侯淵が死んだと思えば曹真登板

後ろ向きになって弓矢を放ち虎を倒す曹真 虎豹騎

 

曹真は曹操の同族で、猟の途中で追ってきた虎を振り向きざまに射るパルティアンショットに優れた騎兵で、虎豹騎(こひょうき)という生え抜きの近衛騎兵隊を率い偏将軍として曹洪(そうこう)に従っていました。当初は、あまり蜀と関係がなかった曹真が蜀に関わるのは、西暦219年に夏侯淵(かこうえん)が定軍山で黄忠(こうちゅう)に討たれた時です。

弓の名人・黄忠

 

曹操は夏侯淵の抜けた穴を埋めるべく曹真を征蜀護軍として、徐晃(じょこう)をつけて補佐させ、劉備の別将の高翔(こうしょう)を破りました。その後の曹真は陳倉に駐屯し、曹丕が即位すると鎮西将軍(ちんせいしょうぐん)仮節(かせつ)都督雍涼州諸軍事(ととくようりょうしゅうしょぐんじ)に昇進しました。仮節・都督雍涼州諸軍事という地位から曹真が、西の対蜀の働きを期待されていた事が分かります。

徐庶がいなくなり寂しがる劉備

 

やっと夏侯淵が死んだと思えば、張郃は生きており曹真が上役でくるのですから、劉備は魏の武将の層の厚さにウンザリした事でしょう。その後、曹真は一度洛陽に戻り上軍大将軍となり、孫権討伐に従軍し、転じて中軍大将軍に拝されて後、曹丕(そうひ)崩御(ほうぎょ)して曹叡(そうえい)が即位すると邵陵侯(しょうりょうこう)に封じられ大将軍となります。


諸葛亮の奇襲に安定対応

韓信vs孔明

 

西暦228年、諸葛亮は水面下で南安・天水・安定の三郡を呼応させて魏に(そむ)かせ同時に祁山(きざん)を包囲します。その頃、魏は諸葛亮をノーマークだったので、三郡の離反に少なからず慌てます。

 

曹叡

 

帝位を継いだばかりの曹叡ですが、軍事には優れ、自ら親征して長安に入ると役に立たない夏侯楙(かこうぼう)を更迭し曹真を総大将にして()に進駐させ、張郃を進軍させて街亭で馬謖を破りました。

ゾンビのように何度も蘇る張コウ(張郃)

 

一方で曹真は郿に本陣を置きつつ、斜谷(しゃこく)街道を北上する趙雲と鄧芝(とうし)を迎え撃ち退却させました。趙雲と鄧芝は囮ではありましたが、歴戦の強者なので、危なげない横綱相撲です。

行軍する兵士達b(モブ)

曹真の功績はそれだけではありません。諸葛亮の手で造反した三郡は、蜀軍が撤退すると次々と魏に降伏していきますが、安定の民の楊條(ようじょう)は、吏民を略取して月支(げっし)城に籠城して抵抗します。そこで曹真は軍を進めてこれを攻囲しました。

進軍する兵士c(モブ用)

 

楊條は、曹真が来たと聞くと恐れ、「大将軍が来たからには早々に降伏するしかない」と観念し、自らを自縛して出城して三郡は全て平定されます。このように曹真は曹叡の命を受けて、北伐の最大の危機を乗り切るのです。

 

北伐の真実に迫る

北伐


諸葛亮の野望を先回り第二次北伐

洛陽城

 

しかし、曹真の真骨頂はここからでした。曹真は諸葛亮が再度北伐に出てくる事を予測します。ただ、祁山の方向は懲りたので、恐らく陳倉から出てくるであろうと考え、郝昭(かくしょう)王生(おうせい)を派遣し途中にある陳倉城を修復させました。

 

郝昭(かくしょう)は陳倉城で孔明を撃退した

 

曹真の予測は的中し、西暦229年、諸葛亮は陳倉のルートを通り、途中にある陳倉城に攻撃を掛けます。陳倉は僅か1000人の兵士しかいませんでしたが、元々、天然の要害であり、また、曹真の提言で補強もされていたので頑強に抵抗します。さらに、陳倉の大将は名将郝昭であり、数万の蜀の兵力を二十数日間も防ぎ続けました。

三国志のモブ 反乱

 

諸葛亮は、当初は、郝昭の友人を使って投降を勧め、それが無理と分るとまず雲梯(うんてい)衝車(しょうしゃ)を用いて攻め掛かり、次に井闌(せいらん)という移動式の櫓を使って城中に矢を射掛け、最期には地下坑道を掘って城内に出ようとしますが、ことごとく阻止されます。やがて、張郃の救援が伝えられると、諸葛亮は食糧不足を懸念し退却。曹真は手柄で食邑を増し、以前と併せて二千九百戸となりました。

呉軍を撃退する曹真

 

この奮闘は確かに郝昭の手柄ですが、その前に曹真が陳倉城を整備していないと、その途中で城が落ちた可能性もあり、曹真の先見性は見落とす事が出来ないでしょう。事実、曹叡の命令で洛陽から陳倉に向かう張郃は、曹叡の落城までに間に合わないのではないか?という疑問に陳倉城の防衛の堅さと、蜀軍の食糧不足を指摘して大丈夫と言っています。


幻に終わった蜀討伐作戦

雨の中進軍する曹真

 

第二次北伐を頓挫させた手柄で、曹真は、西暦230年洛陽で朝見して大司馬に(うつ)り、剣を帯び、宮廷で小走りにならなくていい権利を得ます。さらに曹真は、「うるさくチョコチョコと漢中から出ようとする蜀の息の根を止めましょう。数道から同時に攻め込めば大いに勝つ事が出来ます」と上奏して許可を得ます。

司馬懿

 

曹真は八月に長安を出発し子午道より南下します。一方で司馬懿(しばい)は漢水を遡上し南鄭で合流しようと進軍し、蜀を一撃で粉砕しようと突き進みます。しかし、その頃から三十日以上、雨が降り続きます。そのせいで桟道(さんどう)の各所が断絶する事態になり、さらに曹真も病を得て参戦が難しくなり、曹叡の勅命で洛陽に帰還を命じられます。曹叡は曹真の邸宅に見舞い病気の快癒(かいゆ)を願いますが、願いも空しく231年に曹真は病没しました。

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コメント

  • コメント (1)

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    • 匿名
    • 2020年 4月 06日

    曹叡も三代目のクセに軍事センスがありすぎる


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