実はグダグダだった関ケ原合戦!本当にマジメに戦っていたのは主戦場から遠く離れた場所のこの二人だけ!?


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合戦シーン(戦国時代の戦)

 

日本史の一大転換点となった、関ケ原合戦。長く続いた戦国時代のクライマックスのようなところもあり、歴史ファンにとってはたまらない題材ですよね。そして関ケ原合戦の魅力は、わずか一日の間に凝縮されたドラマチックなエピソードの数々!

 

真田昌幸

 

・東西の有名大名がズラリと名前を揃えた主戦場の壮観!

真田昌幸と徳川家康

 

・信濃国では真田昌幸(さなだ まさゆき)徳川秀忠(とくがわ ひでただ)を翻弄し、関ヶ原への援軍を見事に封じる!

・関ケ原合戦は途中まで一進一退の互角!

・それが、土壇場で小早川秀秋(こばやかわ ひであき
)
が寝返り!

大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)が小早川軍を食い止めようと絶望的な抵抗陣を敷いて壮絶な戦死

 

同年小録(書物・書類)

 

しかし正確な研究が進むにつれて、近年、こうしたドラマチックな展開の大半は、どうやら江戸時代につくられた創作の可能性が高まってきています。あくまで当時の手紙や文書から関ケ原の実像を再現している最近の新説を見ると、通説の関ヶ原ドラマを愛好する人にとっては、いろいろと残念な研究成果があがってきています。

 

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

かの合戦、大筋の展開は通説と同じなのですが、実像はそれほどドラマチックなものではなかった、というのです。合戦が始まった瞬間に、西軍がボロボロに四散していくという、最初から「戦いになっていなかった」展開が、実状に近いとされてきています。

 

足軽a-モブ

 

ただし最近の新説を追っていくと、主戦場の関ヶ原から遠く離れた別の場所で戦っていた「ある二人」については、むしろ通説以上に脚光が当たるという、意外な発見も起こっているようです!

 

そもそも西軍の大名は主力を連れてきていなかった?

水滸伝って何? 書類や本

 

まず疑問符がついているのが、「関ヶ原合戦は当初は東西軍互角だった」という話。というのも、当時の書簡等を読み解いていくと、どうやら準備段階から、西軍側には困った事情があったようです。

石田三成

 

石田三成(いしだ みつなり
)
が期待をかけていた手勢といえば、宇喜多秀家(うきた ひでいえ
)
島津義弘(しまづ よしひろ
)
毛利輝元(もうり てるもと
)
だったのですが、

 

徳川家康

 

・宇喜多家は直前にお家騒動があり、それを何と徳川家康に仲介してもらったという「しまらない」経緯があった。宇喜多秀家がいくら指示を出しても、諸将たちの士気がなかなかあがらなかった。そこで、宇喜多家ほどの名門が、関ヶ原合戦時には「多数の浪人たちを緊急登用(!)」して参戦していた気配がある。

 

薩摩藩の島津義弘

 

・島津義弘は関ケ原に向かうにあたって本国(薩摩(さつま))に軍の派遣を要請したが、なぜか薩摩からは1,000人程度しか派遣されなかった(国元を預かっていた島津義久(しまづ よしひさ
)
が家康に配慮をしたものと推測される)。さすがの島津義弘も、この程度の人数では、ほとんど何もできなかった。

 

毛利輝元

 

毛利輝元(もうり てるもと
)
は西軍最大の兵力を擁しながら、合戦の当日には大阪城からほとんど動かなかった。これは「関ケ原合戦の混乱に乗じて、四国に攻め込み、毛利家の領土を広げよう」という余計なことを考えて、兵力を温存する判断をしてしまった模様

 

足軽b-モブ

 

このように、西軍の諸大名はみんなそれぞれの理由で「主力を派遣できなかった」というのが実情のようです。

 

小早川秀秋は土壇場で寝返ったのではなく、最初から家康側に立っていた?

小早川秀秋

 

最近の研究の中で、関ケ原のドラマを愛する人にとって最大級のショックは、「合戦の土壇場で小早川秀秋(こばやかわ ひであき
)
が寝返ったため、形勢が一気に東軍に傾いた」という出来事が、そもそも後世の創作である疑いが強まっている点でしょう。

 

・小早川秀秋が最初は西軍につきながら、東軍に寝返ってしまったことは、事実

・そして小早川家の寝返りが「合戦の趨勢を決定した」というのも事実

・小早川家が寝返ったのを見て、西軍の士気がガタ落ちしたというのも、どうやら事実

 

ところが問題は、その小早川家の寝返りのタイミングです。

 

細川晴元

 

最近の史料研究によると、小早川秀秋は合戦が始まる前にはすでに家康に呼応しており、合戦が始まった頃には、堂々と、東軍の一部として西軍の陣地に攻めかかっていたようです。

 

つまり、

・西軍の一角の大部隊が合戦の最中に突然裏切り、それで大混乱になった

というよりは、

・開戦早々、小早川家の軍勢がちゃっかり東軍に混じって進撃してきたので、西軍はやる気をなくした

というほうが実情に近いというわけです。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

小早川家が最初から裏切っていて、西軍の瓦解はそれを見ての意気消沈から始まったとすると、「途中までは東西軍は互角だった」という通説はどうなるのでしょうか?

 

また、「小早川家の裏切を食い止めようとして壮絶な戦死を遂げた」とされる大谷刑部の美談は、どうなってしまうのでしょうか?


まとめ:意外なことに、一番マジメに戦ったのは真田昌幸と徳川秀忠だった?

西遊記巻物 書物

 

このように、いろいろと往年の関ケ原ファンにはガッカリな新説が登場している昨今。ですがこんな中にあって、むしろその意義を見直されているエピソードもあります。

 

関ケ原の戦場に向かっていた徳川秀忠(とくがわ ひでただ
)
の部隊が、信濃の上田城を守る真田昌幸に翻弄され、けっきょく関ヶ原合戦に間に合わなかったという大失態をしたエピソードです。

 

徳川家康

 

従来これは、徳川秀忠が率いていたのは増援であり、これが遅れたために後で家康の怒りを買った、くらいのエピソードで収まっていたのですが、渡邊大門(わたなべ だいもん
)
氏の『関ケ原合戦は「作り話」だったのか』という本では、オドロキの指摘がされています。

 

秀忠が率いていたのは援軍どころか、家康が関ヶ原への主力をきれいに2つに分けたうちの片方、つまり「主戦力の精鋭のちょうど半分」だったというのです!

 

戦国時代ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

徳川秀忠の下には、兵数としても数万のレベルの大軍が入っていたはずですし、主戦場での活躍を期待されていた有能な武将もたくさん随行していたことでしょう。

三国志を楽しく語るYASHIRO様

 

となると、敵の主力の半分を一手に引き受けて、見事に主戦場に参加させなかった真田昌幸(さなだ まさゆき
)
の活躍の意味は、通説よりもはるかに大きくなるのではないでしょうか。

ポイント解説をするYASHIRO様

 

また秀忠が上田城にこだわったのも、これほどの戦力を与えられていながら城ひとつ落とせなかったという風評が出ることを恐れてのことではないでしょうか。意外なことに、実際に本気で死力を尽くして戦いあったのは、関ヶ原から遠く離れた場所の2人、真田昌幸と徳川秀忠だったのかもしれません!

 

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コメント

  • コメント (10)

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    • 匿名
    • 2020年 4月 05日

    たしかに秀忠の軍には本多正信や榊原康政らがいたので主力と言ってもおかしくないですね

    • ななしの兵卒
    • 2020年 3月 31日

    諸説在るけど西軍の大敗は毛利の動向だったのはほぼ間違いないかなとは思う、小早川の配置的に見ても家康自身もしもの伊勢方面への退路で早々に内応に見せかけ西軍攻撃させたのも家康すら毛利の動きが読めず関ヶ原の地勢上憂いを除くのにも先に攻略しなければならないのば背後を取れる毛利の位置で高所攻めとなると2倍の手勢と相手の4倍の飛び道具が無ければ負ける、総兵力で当たっても毛利すら叩けるか怪しかった故に密約に博打を賭けて毛利からの挟撃をもし受けても退路として小早川にも早期に仕掛けさせたのかと思う、地形的に西軍は地形に身を任せれる防衛戦、東軍は高所からの打ち下ろし矢雨降る進撃だから本来は退路無ければ総全滅の掃討戦に近い形になってるだろうし、三成の軍略は間違いなく勝ちの形だっただろうと思うが秀吉や信長との違いは後詰が出来て無かった事、家康もどちらかとなら陣用を見て徹底を決めてるか奇襲され柴田の様に語られてたと思う
    三成の失態は机上の駒詰めだけで戦に臨んだ事、しかも予備兵力を用意せず豊臣旗本38000を大阪城に置き、本来なら信用出来る旗本を主力に背後に置き後備えと内応抑止にしなければ利で寝返る可能性を考慮しなければだから、特に堀を埋められてない大阪城は小田原城に並ぶ平城に関わらず堅牢な要害だったんだから32000は最低でも随伴させ無ければ負けても仕方ない、そうなれば毛利が叱責を逃れる為と功労の為にいの一番に動いていたはず

    • 匿名
    • 2020年 3月 30日

    島津はもともと、東軍へ参戦する予定だった

    • 手塚光盛
    • 2020年 3月 29日

    会津征伐の時に三成が挙兵したので軍を2つにわけ主力の家康が関ヶ原に向かったわけです。秀忠は会津征伐を無視して関ヶ原に向かう途中西軍に味方していた真田をうったわけです

    • 手塚光盛
    • 2020年 3月 29日

    西軍では戸田勝成や平塚為広、小西行長も奮戦したね。南宮山にいた長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊、毛利秀元らが東軍に内通していた吉川広家をうちやぶり背後から徳川本陣をつけば勝敗はわからなかっただろうな。また大坂城守備隊の毛利輝元らの3万8千や京極高次の大津城を攻めていた立花宗茂、毛利元康らの2万の軍勢を関ヶ原に進軍させたら完全に西軍の大勝だっただろうなー。

    • 匿名
    • 2020年 3月 29日

    皆、時代劇や大河ドラマに毒され過ぎて、あれを通説だと錯覚してる人が多すぎなだけの気がする。

    • 梅中半兵衛
    • 2020年 3月 29日

    家康は、あえて徳川本隊4万5千を秀忠に任せて、あえて信濃を通って関ケ原に来るように指示した。
    その理由は、信濃を通れば秀忠は必ず真田と戦をする。
    家康は真田との戦の経験から、秀忠では真田との戦は手こずらせ長引く。
    しかし、信濃は土地が狭いので局地戦となり徳川軍の犠牲は少なくて済む。
    真田との戦の勝敗はどうでもいい。
    秀忠は関ケ原に遅れる事になる。
    しかし戦をして遅れたので諸大名には納得させる事はできる。
    結果的に徳川本隊4万5千は温存された。
    関ケ原の戦は外様の諸大名にさせる。
    家康の目的は、秀忠が関ケ原に遅れて到着して徳川本隊の主力を温存する事。
    何故ならば、大阪城に毛利軍5万がいるので関ケ原の後、毛利軍を主力とする西軍との戦がある。
    関ケ原に秀忠率いる徳川本隊が投入されれば犠牲は多大。少ない戦力では毛利軍と戦えないし、諸大名が西軍に寝返る。
    しかし、無傷の徳川本隊が控えている事を諸大名に示せば威圧感を示せるし、諸大名は味方になる。
    そのための戦力を温存するために、家康はあえて秀忠を大将にして、徳川本隊4万5千を預けあえて信濃を通らせた。
    そこまで見越しての家康の判断だと、どこかで知り得た。
    恐るべし徳川家康。

      • 匿名
      • 2020年 3月 30日

      改葬時の調査で、秀忠の遺骨には骨にまで達する銃創があったと聞きます。骨に残る傷痕となれば当時はかなりの重傷だったハズですね。
      しかし記録には秀忠が戦で負傷したと書かれた物は見当たりません。
      まして秀忠が経験した実戦は関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)と、大阪冬の陣、夏の陣の三度だけ。
      その中で秀忠が負傷した可能性のある戦いは、第二次上田合戦と大阪夏の陣です。
      大阪夏の陣では敵の本陣突撃まで許し、身辺警護していた柳生但馬守が敵兵十数名を切り伏せる状況まで陥ったと言われ、現地大阪では川に落ちた秀忠を救出して褒美を貰ったと主張する商人までいるほどの窮地に追い込まれたワケですから、負傷もこの時のモノだった可能性が高いでしょう。
      しかし、その一方で「遅刻して家康の勘気を被り、面会すら許されなかった」と言われる上田合戦、この遅刻も面会謝絶も全て負傷が原因だったとしたら、どうでしょう?
      もし上田で骨にまで達する重傷を負っていたなら、遅刻も、到着後数日間面会が許されなかったのも、実は秀忠の負傷による体調の悪化で説明はつくワケです。
      特に家康に面会謝絶されたのは、無理を押しての上洛で体調を悪化させた秀忠側が「家康に面会できないほどの重篤な状態に陥った」と考えれば、
      家康の「自分でルートを指定しておきながら天候で遅刻した秀忠に激おこ」という矛盾も解けるワケです。
      ま、証拠なんて無いんですけどね。

    • 五右衛門
    • 2020年 3月 29日

    秀忠の軍は増援ではなく徳川の主力を率いていたといわれてませんでしたか?20年以上前から本に載ってましたよ

      • 2020年 5月 05日

      はい、率いる武将から見ても精鋭部隊でした。
      そもそも四万以上の部隊を2代目に預ける訳ですから相応の兵隊でなければならない。
      葵三代という大河ドラマではむしろ家康率いる部隊のほうが劣ると表現されていたくらいです。


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