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この記事の目次
三国志演義での驚きの朱然の扱い
ではここからは三国志演義のお話です。曹丕による三路侵攻は夷陵の戦いの後に起こります、ここ重要です。そして三国志演義では朱然はなぜか「夷陵の戦いで劉備を追撃して趙雲に斬られて戦死」しているのです。
つまり「正史より27年も早く朱然は討ち死にして退場」となっているのです。なので当然ながらこの後で出てくる訳もなく、朱然の活躍の場は三国志演義では綺麗にスルーされてしまうのでした……おのれ羅貫中!
ちょっと三国志演義へのフォローを考えて見る
と、これだけだと少し三国志演義への不満を述べただけになってしまいますのでフォローをしてみましょう。敢えて言うなら、朱然は呉の名将であったからここで討ち死にしたのではないか?と考えられます。
というのもこの夷陵では劉備は負けて、そのまま死亡、これじゃあ格好がつかない、呉にダメージが全然ない!だから夷陵の功績として呉の朱然は討ち取れた!……という演出にしたかったのかな?
とも考えてはみましたが、それにしてもちょっと朱然ではつり合いが取れないんですよね。
退場するには早すぎる大物
三国志演義では基本的に討ち死に、一騎打ちを重視しています。正史では病死した人間を討ち死にさせるのが多いのもそれを裏付けていますね。ただしこういった場所で討ち死にしてしまう人間は同時期に死亡している、もしくは創作の人間が多いのに、なぜかここではその後も活躍する朱然なのです。
何かあって余程朱然が作者に嫌われていたのか……それとも?
この辺りの謎に関しては今後も考察していきたいと思いますが、皆さんはどう考えますか?
三国志ライター センのひとりごと
個人的に呂蒙の戦闘方面の後継者が朱然、政治方面の後継者が陸遜であったと筆者は思います。しかし見返すとやはり三国志演義では朱然の扱いはよろしくないの一言ですね。
ぜひともこの機会に、もしも三国志演義でしか三国志を良く知らないという人は、ぜひ、ぜひ正史での朱然の戦いっぷりを見下さるように、朱然の名誉を回復したい会の一員としてお願いします!
参考文献:呉書朱然伝 呂蒙伝 陸遜伝
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