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この記事の目次
荊州の7年間に家庭を持ったのでは?
黄巾討伐以来、人並みの幸せは望むべくもなく刹那的な暮らしを強いられていた関羽ですが、劉備が荊州の劉表の世話になっている7年間は、新野から南の樊城に遷った事があったものの、それほど長距離の移動ではありません。
劉備は、この7年で特に戦争もないままデブになり、髀肉の嘆の故事も生まれました。劉備も側室の甘夫人との間に阿斗、すなわち劉禅が産まれています。
劉表は傭兵隊長としての劉備に十分な報酬を与えたでしょう。曹操が荊州を攻めた時ですが、劉備は関羽を別動隊として、数百艘の船を与えて江陵で落ち合おうと送りだしています。劉表の没後、劉琮は曹操に降伏した事を劉備に知らせていないので、数百艘の船は劉備の自前か樊城の備品でしょう。相応の資金はあったと考えます。
少ない情報ですが、ボスの劉備がデブチンになるほどに富んで安定していたわけですから、関羽や張飛も当初の形態はどうであれ、家庭を持ちその過程で子供が生まれたのでしょう。荊州には7年間居たので、ある程度、自分で歩く事ができる程度まで子供達は成長していて、長期一緒にいたために離れがたくなり、大勢出た難民に混じって夏口まで落ちて行ったという事だと思います。
関平は樊城が初陣だったのではないか?
ですので、関平の生誕は西暦200年前後であり、樊城の戦いで敗れた頃には18歳くらいで初陣であったのではないかと考えます。そのように考えると、関平に手柄の記述がない事や後継ぎがいない事も説明がつきます。関平は非常に年若く、父である関羽の役に立とうと張り切りますが、皮肉にも初陣が最期の戦いになってしまったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
関平が一体どこで生まれたのかについて考えてみました。傭兵だった関羽は、実際には認知していない多くの子供が、中国各地にいたかも知れませんが、しっかりと家庭を持ち認知した息子は関平が初めてだったのでしょう。
参考文献:正史三国志
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