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蜀の玉璽はどこに消えた?
ほぼ100%漢水うんぬんの件はウソでしょう。襄陽と樊城の戦いの史料を見ても、玉璽の「ぎょ」の字も出て来ません。ただ、その後の正史三国志先主伝にも、受皇帝璽綬とあり、劉備が、どこからか手に入れたか造った玉璽を帯びた事が分かります。
では、玉璽の最期はどうなるのでしょうか?
これは、正史三国志ではなく、それを補う漢晋春秋に以下のようにあります。
劉禅が、降伏を唱える譙周の策に従おうとした時、北地王劉諶が怒り「もし理を縮めて暴力に屈し敗れるのが避けられなくなれば、我ら父子と人臣は城を背に一戦し社稷と死を同じくして先帝にまみえるだけではありませんか」 と言い切った。
しかし劉禅は採用せずにかくして璽緩を送った。この日、劉諶は劉備の廟で号泣し先に妻子を殺しその後に自殺した。左右の者で泣かぬ者は無かった。
このようにみると、実際に身柄を敵に預けるのではなく、玉璽を敵に送るのが事実上の降伏の証であり、それで劉諶は絶望し死んだとも取れますね。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は劉備の玉璽について解説してみました。
劉備が皇帝に即位した以上、当然玉璽もあるのでしょうが、その由来についてまでは知りませんでした。今回、劉備の玉璽が関羽の最期の戦いである樊城・襄陽の戦いで漢水の底から発見されたと知り、群臣が頭を絞り必死に考えたであろうウソ臭い逸話に、苦労したんだろうな、、ウソだけどと妙にしんみりしてしまいました。
参考文献:正史三国志
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