孫晧は司馬炎に玉璽を渡していたのか?消えた玉璽と玉璽肯定・否定論

2019年9月11日


 

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玉璽

 

呉(222年~280年)の天紀4年(280年)に呉の最後の皇帝孫晧(そんこう)は西晋(280年~316年)の初代皇帝司馬炎(しばえん)に降伏しました。この時、孫晧は司馬炎にあるものを差し出します。それは皇帝の印鑑でした。

 

玉璽を見つけた孫堅

 

普通に考えたら、それは呉の基盤を築いた孫堅(そんけん)洛陽(らくよう)で見つけたものでしょう。しかし、どうやら素直に頷けない説があるようです。残念ながら正史『三国志』の著者の陳寿(ちんじゅ)は何も語っていません。そこで今回は裴松之(はいしょうし)が残した史料をもとに解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫堅が見つけた玉璽とは?

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

呉の韋昭(いしょう
)
が執筆した『呉書』という書物によると初平元年(190年)に孫堅は董卓(とうたく)討伐のために挙兵して洛陽を目指します。やがて到着した孫堅は荒れ果てた洛陽を修復していました。その時、南の井戸から五色の光が出ているという報告が届きました。

 

金色で爪が五本ある竜

 

不思議に思って探索してみると中から5匹の竜を飾りが付いた印鑑が出ます。それは中平6年(189年)の袁紹たちによる宦官討伐により朝廷から失われた「伝国の玉璽」でした。

 



複数あった皇帝の印鑑

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

「伝国の玉璽」とは何でしょうか?

 

サッカーボールを蹴る劉邦

 

『志林』という書物によると、伝国の玉璽は秦の始皇帝(しこうてい)が造らせたものであり、秦滅亡後は漢(前202年~後220年)の劉邦(りゅうほう)が受け取って、それが歴代の皇帝に継承されていったようです。ただし、それとは別に仕事用の印鑑も存在していました。

 

それは「天子の六璽」と呼ばれるものです。天子の六璽は「皇帝之璽」・「皇帝行璽」・「皇帝信璽」・「天子之璽」・「天子行璽」・「天子信璽」であり文書によって分けていました。

 

消えた玉璽と玉璽肯定・否定論

建業を捨てて武昌に首都移転する孫皓

 

西晋の太康年間(280年~289年)に孫皓は降伏の証明として司馬炎に印鑑を差し出します。ところが、出されたのはなんと「天子の六璽」だけであり、孫堅が洛陽で見つけたはずの玉璽はありません。驚いたことに司馬炎も何もツッコミをしません。

 

陳寿(晋)

 

上記の話が記載されている『江表伝』の著者の虞溥は玉璽が無かったことから、孫堅が洛陽の井戸で玉璽を拾ったことを否定しています。正史『三国志』の著者である陳寿もこの件に触れていないことから、信じていないと考えられています。

 

ところが、先ほど紹介した『志林』の著者の虞喜は「玉璽を差し出さなかったからといって、孫堅の話を全否定するのは違うと思いますよ」とコメントしています。また虞喜は明言はしなかったのですが、孫晧は玉璽を大切に隠し持っており、代々子孫に伝えていると考えているようです。

 

裴松之(歴史作家)

 

裴松之もやはり、否定論者でありますが深い考察をしています。

 

「孫堅は後漢(25年~220年)のために挙兵したのに、その玉璽を持ち帰って公表もしないのは忠義の士というよりも、王朝に対して二心を抱く人物になってしまう。伝国の玉璽が呉に伝わったという話は、逆に孫堅の美徳を傷つけることになる」

 

また、裴松之は例え玉璽を差し出した話が本当だったとしても、皇帝を辞めて一般人となった孫晧が秘蔵してよいほど玉璽は安い品ではないと結論を出していました。裴松之の言っていることは確かに的を得ており納得出来ます。

 

韋昭(いしょう)

 

現在、孫堅が見つけた伝国の玉璽の話は『呉書』の執筆者の韋昭が国に箔を付けるために捏造したものと考察されています。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

玉璽について調べていたら、横山光輝氏の『三国志』の玉璽がガチャで登場していたことが発覚しました。色は金・銅・翡翠の3種類。「劉備」「関羽」「張飛」「曹操」「諸葛亮」の5人の絵を押すことが可能です。

 

お値段は1回に300円。最近のガチャは高いですね。昔は100円か200円程度だったのに・・・・・・個人的に気に入っているのは諸葛亮の「馬鹿者」と叫ぶシーンですね。馬謖が街亭の戦いの敗戦の軍法会議で諸葛亮に言い訳するシーンというのを覚えています。

 

筆者の三国志に対する愛情が深いことが改めて再確認されました。

 

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英雄の死因

 

 

 

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