超ウソくさ!劉備の玉璽はあの漢水に沈んでいた

2020年4月16日


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劉備の玉璽(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の玉璽はどこに消えた?

桃園の誓いをする劉備、張飛、関羽

 

ほぼ100%漢水うんぬんの件はウソでしょう。襄陽と樊城の戦いの史料を見ても、玉璽の「ぎょ」の字も出て来ません。ただ、その後の正史三国志先主伝にも、受皇帝璽綬(じゅこうていじじゅ)とあり、劉備が、どこからか手に入れたか造った玉璽を帯びた事が分かります。

 

では、玉璽の最期はどうなるのでしょうか?

 

これは、正史三国志ではなく、それを補う漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)に以下のようにあります。

 

君たちはどう生きるか?劉禅

 

劉禅が、降伏を唱える譙周の策に従おうとした時、北地劉諶(りゅうじん)が怒り「もし理を縮めて暴力に屈し敗れるのが避けられなくなれば、我ら父子と人臣は城を背に一戦し社稷(しゃしょく)と死を同じくして先帝にまみえるだけではありませんか」 と言い切った。

しかし劉禅は採用せずにかくして璽緩(じじゅ)を送った。この日、劉諶は劉備の廟で号泣し先に妻子を殺しその後に自殺した。左右の者で泣かぬ者は無かった。

 

このようにみると、実際に身柄を敵に預けるのではなく、玉璽を敵に送るのが事実上の降伏の証であり、それで劉諶は絶望し死んだとも取れますね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は劉備の玉璽について解説してみました。

 

劉備が皇帝に即位した以上、当然玉璽もあるのでしょうが、その由来についてまでは知りませんでした。今回、劉備の玉璽が関羽の最期の戦いである樊城・襄陽の戦いで漢水の底から発見されたと知り、群臣が頭を絞り必死に考えたであろうウソ臭い逸話に、苦労したんだろうな、、ウソだけどと妙にしんみりしてしまいました。

 

参考文献:正史三国志

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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