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この記事の目次
嘘をつかない
王翦の特徴としては嘘をつかない、出来ない事は言わない点があります。元々が無口ではありますが、虚言で人を欺くという描写はありません。
朝倉宗滴の言葉にも、
豪傑であろうと並みの武士であろうと、およそ戦闘者たるものの第一は、嘘をつかぬ事だ。少しも怪しい言動をせず、常日頃から律儀を立てて、恥を知る振る舞いをする事が基本である。と書いています。
どうして戦闘者は、嘘をついてはいけないのか?
それは命をかけた戦場では日頃嘘をついているような人間は信用されないからです。緊急時に信用されないようでは大将失格なので普段から嘘をつかず、発言には慎重であるべきなんですね。
幅広い情報収集力
王翦の特徴には、幅広い情報収集能力もあります。
一将軍でありながら、黄河の東側を管轄する斉の存在に目を付けて、そこから食糧を運ばせるように昌平君に依頼したのは、斉王がこの申し出を受けると言う確かな自信があって出来た事ですし、それ以前に鄴で兵糧不足が起きる事を王翦が予見していなければ、こんな頼み事が出来るハズもありません。
朝倉宗滴にも、そんな逸話があります。大永7年1527年、宗滴は足利義晴、細川高国に協力を依頼され、京都塩小路千乗寺口で、三好元長率いる四国勢と戦います。
四国勢は、京の南西、山崎方面から攻め上がり、足利義晴の軍勢は、現在の京都駅から東海道本線、西大路駅にかけての一帯に布陣しました。敵は南方なので、足利軍は南正面の防御を厚くしていました。
理由も言わず北の防備を固める宗滴
ところが宗滴は、南側の守りを放棄し北側の京都市中に向けて守りを強化するように進言しました。諸将は敵が多い所を棄てて、敵がいない場所の守りを堅くするというトンチンカンに首を傾げますが、宗滴はウソを言わず、有言実行の人物だったので、進言は採用されました。まもなく、敵は北方に迂回して足利軍に攻め掛かり、宗滴の砦は大いに役に立ちました。
味方にも心を開かない
興味深いのは朝倉宗滴は沈黙を守り、どうして三好元長の軍勢が北から迂回すると知ったか、一切味方に説明しなかかった事です。つまり、味方でも手の内は見せないという徹底した秘密主義でした。理由は戦国時代は離合集散が多く、今は味方でも次には敵になるかも知れない不安定な人間関係があったからです。
王翦もどうして、斉王建が兵糧を売ると思ったのか?それを昌平君には説明していません。こちらも心を開いてはいません。宗滴も王翦も作戦内容のタネ明かしをせず、ただ、敵を打ち破ったという事実だけが残ったのです。
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