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この記事の目次
ウソ!平安京内部に寺は東寺と西寺だけ
京都というと寺院仏閣のイメージですが、平安京の内部にあったお寺は、東寺と西寺だけでした。そればかりか、平安京の内部に寺を建ててはいけないという決まりもあったのです。
元々、桓武天皇は、平城京で勢力を伸ばした仏教勢力の影響から逃れようと長岡京、そして平安京へ遷都した人物ですから、自分の都である平安京内部に寺を建てて坊主を入れようなんて、考えもしなかったんですね。
無意味に広い朱雀大路
平安京のメインストリートである朱雀大路は、幅が82mもあり東京駅前の行幸通りよりも広く設計されていました。唐の長安の朱雀大路は147mあり、これに負けじと拡大したようですが、バカ広いだけで実用性は皆無でした。
この朱雀大路の両側には、外国の使者を滞在させ、接待させる鴻臚館があり、外国の使者に平安京の広さを印象づけようという見栄えが重視されたようです。ただ、その外国の使者は、唐と新羅と渤海でしたが、唐人の入京は834年で終わり新羅使の入京も780年が最期、渤海使は920年で終わりメインストリートを見せつける相手も消えてしまいます。
残された朱雀大路の用途は大嘗祭に、天皇が朱雀大路を歩くだけでしたが、大嘗祭は天皇即位の場合に一度だけ使われるだけでした。やがて朝廷の力が衰えるに従い、朱雀大路は荒れ果てても修復する事が出来なくなり、大嘗祭も朱雀大路をショートカットして行われるように変化します。デカイ分だけ衰亡ぶりが目に付くというイタイ状態になったのです。
そもそもデカすぎた平安京
平安京を建設する時、桓武天皇は唐の長安に負けないような巨大な都を目指しました。
つまりは唐と我が国は対等であるぞという気構えを都の大きさで示そうとしたのです。しかし、土地の地理的な制約があり、事実は長安城の1/4の規模に縮小せざるを得ませんでした。
それでも、まだまだ平安京はまだデカすぎたのです。
平安時代、唐の長安城の人口は100万を超えていたのに対し、平安京の人口は僅かに10万人で、1/10でしかありません。そのため、右京どころか左京でさえ土地を持て余し、実際には左京の北半分で充分だったようです。
実際、荒廃した戦国時代、平安京は戦乱に備えて濠を巡らした総構の上京と下京に集約されましたが、これは大体、左京の北半分にすっぽり収まっていました。
平安京を埋める実力が朝廷になかった
本当なら、国力を増加して平安京が埋まるように努力すべき朝廷でしたが、実際には真逆の事が起き、荘園が増加して貴族や寺院の力が増大する一方で、天皇の権力は藤原氏のような摂関家に牛耳られ縮小、何度か行われた貨幣の発行も、畿内一円の流通に留まり、商工業の発展も流通の進歩も起きず、ついに一度も都の規格に見合うだけの人口を呼び込む事は出来ませんでした。
鳴り物入りで宣伝してコケた万博のように、平安京は集客に失敗したパビリオンになってドンドン老朽化が進んでいったのです。
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