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意外!平安京は未完成で終った残念な首都だった


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平安京は未完成で終った残念な首都(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ウソ!平安京内部に寺は東寺と西寺だけ

五重塔(仏塔)仏教

 

京都というと寺院仏閣(じいんぶっかく)のイメージですが、平安京の内部にあったお寺は、東寺と西寺だけでした。そればかりか、平安京の内部に寺を建ててはいけないという決まりもあったのです。

 

元々、桓武天皇は、平城京で勢力を伸ばした仏教勢力の影響から逃れようと長岡京、そして平安京へ遷都した人物ですから、自分の都である平安京内部に寺を建てて坊主を入れようなんて、考えもしなかったんですね。

 

無意味に広い朱雀大路

kawauso

 

平安京のメインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)は、幅が82mもあり東京駅前の行幸(みゆき)通りよりも広く設計されていました。唐の長安の朱雀大路は147mあり、これに負けじと拡大したようですが、バカ広いだけで実用性は皆無でした。

李斯

 

この朱雀大路の両側には、外国の使者を滞在させ、接待させる鴻臚館(こうろかん)があり、外国の使者に平安京の広さを印象づけようという見栄えが重視されたようです。ただ、その外国の使者は、唐と新羅(しらぎ)渤海(ぼっかい)でしたが、唐人の入京は834年で終わり新羅使(しらぎし)の入京も780年が最期、渤海使(ぼっかいし
)
は920年で終わりメインストリートを見せつける相手も消えてしまいます。

内容に納得がいかないkawauso様

 

残された朱雀大路の用途は大嘗祭(だいじょうさい)に、天皇が朱雀大路を歩くだけでしたが、大嘗祭は天皇即位の場合に一度だけ使われるだけでした。やがて朝廷の力が衰えるに従い、朱雀大路は荒れ果てても修復する事が出来なくなり、大嘗祭も朱雀大路をショートカットして行われるように変化します。デカイ分だけ衰亡ぶりが目に付くというイタイ状態になったのです。

 

そもそもデカすぎた平安京

函谷関

 

平安京を建設する時、桓武天皇は唐の長安に負けないような巨大な都を目指しました。

 

つまりは唐と我が国は対等であるぞという気構えを都の大きさで示そうとしたのです。しかし、土地の地理的な制約があり、事実は長安城の1/4の規模に縮小せざるを得ませんでした。

 

それでも、まだまだ平安京はまだデカすぎたのです。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

平安時代、唐の長安城の人口は100万を超えていたのに対し、平安京の人口は僅かに10万人で、1/10でしかありません。そのため、右京どころか左京でさえ土地を持て余し、実際には左京の北半分で充分だったようです。

 

実際、荒廃した戦国時代、平安京は戦乱に備えて濠を巡らした総構(そうがまえ)上京(かみぎょう)下京(しもぎょう)に集約されましたが、これは大体、左京の北半分にすっぽり収まっていました。

 

平安京を埋める実力が朝廷になかった

 

本当なら、国力を増加して平安京が埋まるように努力すべき朝廷でしたが、実際には真逆の事が起き、荘園(しょうえん)が増加して貴族や寺院の力が増大する一方で、天皇の権力は藤原氏のような摂関家(せっかんけ)牛耳(ぎゅうじ)られ縮小、何度か行われた貨幣の発行も、畿内一円の流通に留まり、商工業の発展も流通の進歩も起きず、ついに一度も都の規格に見合うだけの人口を呼び込む事は出来ませんでした。

 

鳴り物入りで宣伝してコケた万博のように、平安京は集客に失敗したパビリオンになってドンドン老朽化が進んでいったのです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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