最後には味方に裏切られ、魏と呉の同盟軍に敗れた関羽。
三国志演義では呂蒙に討たれた関羽の首は魏に届けられますが、この際に劉備の復讐を恐れた曹操は丁重に関羽の葬儀を行い「首になっても二つの国を震え上がらせるとは」と言います。
その後、関羽の呪いのようにバタバタと人が死んでいきますが、特に呂蒙の死は関羽の呪いと三国志演義では書かれていますね。しかし呂蒙の死は本当に関羽の呪いだったのか・・・?
今回はこの関羽が最後に残した謎とも言える「呂蒙の死」について考えてみたいと思います。
正史における呂蒙の最期
正史における呂蒙は病死とされていて、それ以上の記述はありません。関羽を討伐した後から病床についた呂蒙を孫権は非常に心配して、何度もお見舞いに行ったり、治せる者に報奨金を出すと言ったりしましたが呂蒙の病気は治らず。
219年末、享年42歳で呂蒙は亡くなります。遺言として孫権からの贈り物を全て返還すること、そして自分の葬儀は簡素にするように言い残しました。最期までその誠実な人柄が見えるようですね。
三国志演義の呂蒙の死因
対して三国志演義での呂蒙はある意味とても壮絶な最期を迎えます。10月14日に関羽を討ち取り、12月17日に開かれた宴でなんと関羽の亡霊にとり憑かれてしまいます。このとり憑かれた呂蒙は孫権に掴みかかって罵り、呂蒙を道連れにすると叫ぶとその身体から血を吹いて死ぬという……何とも壮絶な最期です。
このため三国志演義での呂蒙の死因は関羽の呪いとなりますが、もちろんこれは三国志演義での創作。いったい呂蒙はどんな病気で亡くなったのでしょうか……?
疑われる病気は・・・?
そこで呂蒙の死因となった病気を考えてみたいと思います。呉は病気が多いので疑われる死因も多いのですが、ここで筆者が挙げたいのが一つ。それは「ストレス性胃潰瘍」です。もちろんこの病気を考えた理由はいくつかありますので、その理由を一つずつ説明していきましょう。
呂蒙の性格
呂蒙は関羽と戦いますが、その際に占領した城でしっかりとした罰則を設けました。場内の人家への侵入や略奪行為は固く禁じ、破った者は同郷であっても見逃しません。
それでいて病気になったという人がいれば医者を送り、飢饉や寒さで悩む人々には食料や衣類を届けるなどの細やかな気遣いをしたそうです。この細やかな気遣いができたからこそ人心を掌握し関羽に勝ったとも言えるのですが、これだけ他人を思いやれる細かいことに気付く性格、ストレスが溜まりそうだな……と思います。
他人への気遣いは実は非常にストレスを感じるもの、これが呂蒙の死因に繋がったとは言えないでしょうか。
【次のページに続きます】