ローマ帝国が4世紀に公認して以来、15世紀の宗教改革まで欧州において絶対の権力と権威を持っていたカトリック教会。その事はよく知られていますが、どうしてカトリックが絶大な権力を振るったかご存知でしょうか?
一見すると一神教の権威を盾に神罰を恐れる人々を支配したと取られがちですが、実はカトリックの力は信仰心のみでなく、教会税という税金のお陰でもあったのです。
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この記事の目次
旧約聖書に起源をもつ教会税
教会税は、元々ユダヤ教の聖典だった旧約聖書に起源を持ちます。
旧約聖書には、古代ユダヤ人は教会に収穫物の1/10を献納していた事が記録されていました。例えば創世記には、人類の祖であるアブラハムが略奪品の1/10を司祭王メルキセデクに捧げた話や、アブラハムの子孫も収穫物の1/10を司祭に納めたと書かれています。
この記述が根拠となり、ユダヤ人はパエスチナの教会に収穫物の1/10を納めるのが義務になります。キリスト教はユダヤ教を母体に生まれたので、税金を納めさせるのに都合がいい1/10税もそのまま引き継ぎました、これがカトリックの教会税の始まりです。
キリスト教徒の義務になる教会税
もっとも初期の教会税は、税金と言うよりも寄付の性質が強いモノで、熱心な信徒が進んで寄付している自主的なモノでした。しかし、コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教として認め、その勢力が欧州全域に拡大すると教会税は寄付から強制へとシフトチェンジしていきます。
西暦585年フランク王国において、第二マコン教会会議が開かれ、その会議上で教会税は明文化されてキリスト教徒の義務とされ、納めきれない者には、教会の立ち入り禁止、破門、家屋の接収という罰則まで決まります。
もちろん、税金化した以上、教会税の使途の公開が求められるようになります。それによると教会税は①教会の運営資金、②教会の建設と修繕費、③貧しい人々への慈善事業、④司教へ送られると4つに区分されています。
もっとも使途が分かろうと、どこにいくら使われるのか、庶民には確認しようがないので、ほとんどブラックボックスなんですが・・
潤沢な資金を背景に教会ビジネスが誕生
西暦585年の第二マコン教会会議以後もキリスト教は拡大し、やがて欧州全域を覆います。8世紀のフランク王国のカール大帝は「国民は教会に1/10税を支払わねばならない」と明言し、さらに納税の方法まで細かく規定しました。
それはさながら確定申告のようなもので、納税者は証人の前に、全ての収穫物を見せ、その中から1/10を分割する事を義務付けます。厳しい監視の目により、教会税は容赦なく取り立てられるようになったのです。
さらに、カトリック教会は布教の為にも教会税のシステムを利用しました。教会がない土地に新しく教会をたてた人間にも教会税の徴収を許したのです。これにより、新しく教会を立てた人物は、1/10税から、司教に支払う金額を除いた3/4を自分の収益にする事が可能になりました。
教会を建てられるのは、権力者や貴族や大金持ちに限られるので教会の建立は利権の巣になり、残された教会未設置の土地に誰が教会を建てるかで醜い争いが起きます。また1/10税の徴税権を債権として売り出す罰当たりな事も平然と行われ、かの劇聖シェイクスピアも、年金代わりに1/10税債権を保有していたそうです。
この方法は、教会の数を爆発的に増やしました。欧州のどんな片田舎にも教会があるのはカトリック公認の教会ビジネスのお陰だったのです。
欧州の植民地にも適用された教会税
キリスト教の布教とセットになった教会税は欧州だけではなく、世界中に災厄を撒きました。大航海時代を迎えて、南北アメリカやアフリカ、アジアに乗り出していった冒険者にも、この教会税が適用されたのです。
冒険者たちはアメリカ大陸で、アフリカで、アジアで、現地民を強制的にキリスト教に改宗させて、教会税を課しました。それも本国から目の届かない土地であるのを良い事に、ほとんど強奪に近い形で富を収奪し、多くの現地民を殺戮、疫病、飢えで殺しました。
私達は、税金が人を殺すという最悪のケースを教会税から読み取る事が出来ます。大航海時代は香辛料を求めての冒険という面もありますが、キリスト教の布教、そして教会税という欲望ともリンクしたものだったのです。
教会税に苦しむ欧州諸侯
教会税は消費税と同じ性質を持っています。つまり、貧しい人に厳しい税なのです。
一律10%の課税という事は、例えば年収1000万円の人は100万円、年収100万円の人は10万円です。年収1億円の人は100万徴収されても、貯蓄から支払え暮らしに支障はありませんが、年収200万円の人が20万円徴収されては、食費を切り詰めないといけません。
しかし、世の中は貧しい人の方が圧倒的に多いのであり、昔なら尚の事そうでした。特に教会税が課された欧州では、教会が肥え太る一方で、世俗の国王は教会税で疲弊した領民からろくろく税金も取れず国庫は火の車でした。
私達は欧州の国王と言うと、絶対王政という言葉から、強力な権力を持っていたと勘違いしがちですが、それは17世紀から19世紀の初頭までであり、それ以前の欧州は封建社会で諸侯の領地は細かく分かれ、国王の領地も小さな直轄地だけでした。教会税のお陰で国王の財源は乏しく国庫は火の車であり、生活に困った国王が直轄地を切り売りして赤字を埋めるのもしょっちゅうでした。
フィリップ4世がローマ教皇拘束
高い教会税を搾り取る教会、すなわちローマ教皇に対する欧州国王の不満は高まります。14世紀初頭のフランス国王フィリップ4世は毛織物で有名なフランドル地方領有を巡り、イギリスのエドワード1世と熾烈な戦いを繰り広げていました。
戦費は膨大になり、フィリップは領民から増税して賄いますがそれも限界を迎え、国内の教会へ徴税しようとします。しかし、フランスの教会はローマ教皇ボニファティウス8世に泣きつき、1302年教皇はフィリップに課税を認めないと通知を出します。
フィリップ4世は、それならばとフランス領民に1/10税の支払いの停止を命じます。課税がダメなら、教皇に払っている税金を戦費にするというわけです。これには領民は大喜びし、フィリップを支持しますが、ボニファティウス8世は怒り、フィリップ4世に対し破門をチラつかせて納税の圧力を掛けます。追い詰められたフィリップは、とんでもない行動にでます。
1303年の9月、フィリップ4世はローマに政治顧問を送り込み、ボニファティウス8世を誘拐して建物に監禁し「命が惜しくば退位せよ」迫ったのです。この時は気が付いたローマ市民により教皇は救助されますが、心労と屈辱でボニファティウスは一か月後結石で急死します。
アヴィニョン捕囚からの教皇庁分裂
教皇拉致に失敗したフィリップ4世は、さらなる手を打ちます。バチカンに圧力を掛け、フランス人を次の教皇にするように迫ったのです。中世フランスは敬虔なカトリックの国であり、教皇の選挙権を持つ枢機卿にもフランス人が多数いました。この計略は成功し1305年にはフランス人教皇クレメンス5世が誕生します。
即位したクレメンス5世は、フィリップ4世の要請でフランスに遷都、教皇庁をアヴィニョンに置いたのです。これにより、フランスの教会税はバチカンではなくアヴィニョンに集まる事になります。それもこれも、何としても教会税を拒否したいフィリップ4世の企みでした。いくらなんでも、ここまでやるか、、という感じですが、それ位、教会税がフランスの負担だったのです。
この騒動をアヴィニョン捕囚と言いますが、68年後、1377年にアヴィニョン教皇庁7世のグレゴリウス11世がフランス人の猛反対を押し切りバチカンに帰還し事態の収拾を図ります。
ところが今度はフランスが別人をローマ教皇に立てて、ローマ教皇が二人いるという分裂状態になります。一応、問題は1417年の公会議で収拾され、教皇庁はバチカンのみになりましたが、教会税を巡る分裂騒動は実に100年以上も続いたのです。
kawausoの独り言
教会税を巡る紛争は、イングランドのエドワード8世とバチカンとの間でも起こり、エドワードはカトリックと絶縁してイギリス国教会を立ち上げ、教会税を払わなくなります。
ルネサンスと宗教改革を通じて、唯一絶対のカトリックの支配は揺らぎ、教会税も集まらなくなり、その権力は縮小されていきます。欧州は教会の支配を抜けて封建を脱し、中央集権制の絶対王政の国が続々と樹立されるようになるのです。
参考文献:脱税の世界史 宝島社
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