織田信長の大減税「ノブナガノミクス」が日本を救った

2019年12月25日


 

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織田信長

 

戦国の革命児、織田信長(おだのぶなが)、大胆な行動と革新的な政治手法とは裏腹に能力主義で無能と見做した家臣を容赦(ようしゃ)なく使い捨てるなど、人間味に欠ける人物のようなイメージもあります。ところが敵には苛烈(かれつ)だった信長、領民に対してはかなり優しく、大減税をして重税に苦しむ庶民を救っていた事が明らかになってきました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国時代の日本は中間搾取だらけの重税国家

餓えた農民(水滸伝)

 

どうして、戦国時代の日本は重税国家になったのか?その大きな理由は荘園(しょうえん)に由来する複雑な徴税の仕組みと中間搾取(ちゅうかんさくしゅ)にありました。荘園の持主は大抵都に住んでいて、荘官(しょうかん)という代理人を荘園に派遣して徴税していましたが、この荘官が税をピンハネして自分の懐に入れるようになったのです。

平清盛 鎌倉幕府

 

さらに鎌倉時代になると、頼朝(よりとも)が派遣した武士が地頭として荘園の徴税の分け前を寄こせと言い出しました。さらに室町時代になると守護(しゅご)も自立して荘園からの徴税を行います。つまり、荘園農民は、荘園領主、荘官、地頭、守護の四者から色々な名目で年貢を巻き上げられる重税に苦しんだのです。

 



数多の戦国大名の中で信長だけが大減税を断行

真田丸 武田信玄

 

戦国大名の多くは、これら中間搾取が領民を苦しめ生産性を下げている事を承知していました。「中間搾取をなくし年貢を一元化する事で重税を軽減する」それがどこの戦国大名にとっても至上命題だったのです。

 

暗号を使う上杉謙信

 

ところが、荘園の持主は寺社のような強大勢力なので戦国大名は反発を恐れて改革のメスを入れられず、上杉謙信や武田信玄のような戦国大名でさえ、対立を恐れて寺院を保護し領民の税金は据え置くようになり、農民の負担を減らす事に踏み切れませんでした。ところが天下人信長だけは、既得権益を持つ中間搾取勢力に容赦なくメスを入れ、大多数を占める農民の大減税に乗り出しました。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

織田信長スペシャル

 

天正十年ノブナガノミクス発令

西遊記巻物 書物

 

天正十年三月、信長は武田勝頼を滅ぼして、信濃(しなの)甲斐(かい)を手に入れます。甲斐と信濃は河尻秀隆や森蘭丸兄弟に与えられますが、この時信長はノブナガノミクスとも言える税制改革法令を指示しました。似たような内容の法令は、越前の柴田勝家(しばたかついえ)にも送られているので、これは織田信長の発布した憲法のようなものです。

 

それは十条からなりますが、その一条、二条には以下の文言がありました。

 

  • 関役所、駒の口(馬や荷駄をチェックする場所)において税を徴収してはならない

  • 百姓前からは、本年貢以外は過分な税を取り立ててはならない

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

ごらんのように信長はそれまで、当たり前のように関所で取られていた通行税を禁止し、二重三重の中間搾取が当たり前だった荘園の年貢を本来の税だけに留めるように命じています。条文は実際には十条あり、訴訟の処理や弾薬を貯蔵する事や道をちゃんと修繕する事などが書かれていますが、その肝は最初の一条と二条です。信長はその生涯の最終段階で、荘園の農民に対して大減税を決行していたのです。

 

五公五民が当たり前の所を33%に軽減

安土城 織田信長が作らせた城

 

では、信長の領地内で年貢はどの程度まで軽減されていたのでしょうか?実は信長支配下での税率については、詳しい事が書かれていませんが、永禄(えいろく)十一年に近江の六角氏領を手にいれた時に、「収穫高の三分の一を年貢とする事」と書かれた文書が確認されています。

 

経済政策が得意な織田信長

 

六角氏の領地についてだけの文書ですが、まさか、領内において極端に税率が違うとも考えにくいので、信長領の大半は、収穫の三分の一が年貢だったのでしょう実に税率33%、50%を取られる事も珍しくない戦国時代においては、かなり低い税率と言えます。

 

 

さらに驚くべきは永禄十一年という年代です。これは西暦で言えば1568年であり、織田信長が上洛する直前の時期です。つまり、天下統一への初期段階で信長は低い税率で年貢を徴収していた事がわかるのです。という事は、もしかして、これは尾張や美濃で徴収していた税率の延長である可能性もあるのではないでしょうか?これから天下統一に向けてお金が入用な時に、どうして信長は大型減税に踏み切ったのでしょうか。

 

税率を下げる事で消費を活発にした

宋銭 お金と紙幣

 

あまり知られていませんが、信長は京都を手中にして、領国を増やしながら、道路整備のインフラを強力に推進していきます。それは天正二年(1574年)十一月の尾張から始まり、信長の領国内にどんどんと幹線道路を通していきました。戦国時代、道路は軍事上の理由からあまり直されず、また敢えて曲がりくねった道路を造る事で敵の進軍を阻止していました。それは軍事的にはメリットがあっても、商業的には全く邪魔なものでした。信長は経済力と軍事力を背景に、道路を拡幅して、最短ルートを設定、途中の森を伐採するなどして盗賊の隠れ家を一掃していきました。

ルイス・フロイス

 

イエズス会の宣教師(せんきょうし)の報告には

 

そして、以前、その諸国では少なくとも道連れのない一人旅は日中でもあまり安全ではなかったのだが、彼(信長)の時代には、人々はことに夏は夜間旅をした。彼らは、その荷物を傍らに置き、路傍(ろぼう)でねむり込んでも、他の人々が自宅においてそうできたほど安全になった。

彼は道中のこの秩序と設備を、その統治下の多数の諸国において実現させた。

井伊直政

 

信長は減税をする事で、庶民の消費熱を高め、道路を整備する事で流通を活発にし、経済を発展させる事で税収をアップさせたのです。この大胆にして人の心理を掴んだ減税は信長の統治下の領国の民心を安定させ、それがまた信長躍進の原動力になるのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

大幅な年貢減税を行い庶民の懐を温め、街道を拡張して安全にする事で、人とモノの往来を活発にして税収を増やすとは、信長の天才的な経済センスに驚きます。年貢として取るより消費の活発化で税収を増やすとは、消費税増税で消費を逆に冷やす現代日本の政治家の皆さんにも見習って欲しいものです。

 

参考文献:「桶狭間」は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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