三国志、特に三国志演義のラストになると悲痛なほど北伐を繰り返し、成功しないまま剣を折る姜維の姿が目に焼き付きます。敵国に降り、迎え入れられ、そして最後までその国のために戦った姜維の姿は賛否両論あれど間違いなくかっこいいと言えるでしょう。
しかし良くある姜維のイメージ像は若くイケメンですが、姜維のビジュアルはどんなものだったのでしょうか?
そこを調べている内に面白い繋がりも見かけたので、今回はそこに付いての小話としてお楽しみ下さい。
この記事の目次
正史に姜維のビジュアルの説明はなし
さてのっけからネタバレですが、正史三国志において姜維の容貌に付いての記載はありません。ただし、多くの場合では姜維は見目好い若武者として描かれているように思われます。
特に三国志演義では諸葛亮の後継者としてプッシュされていることもあって、才気煥発な若武者である姜維は容貌も良い方が見栄えがするということもあるのでしょう。ゲームなどでも晩期の蜀を支えるイケメン武者が殆どです。
三国志のイケメンの基準
イケメンと言われると線の細いイメージがありますが、三国志の時代では決してそうではなかったようです。例えば美周郎の呼び名が有名な周瑜ですが、この美周郎は正史にはなく、三国志演義で名付けられたと言ってもいい呼び名です。
そしてこの美周郎、意味合いとしては周さんちの美形の若様、みたいな意味ですが、正史三国志を見てみると周瑜はどちらかと言うと体格が堂々として立派な若者、という感じです。なので現代的な感覚としてはイケメンというよりはたくましい男性なイメージになるでしょうね。
公式?イケメンのお二人
さてそんな三国志でも正史に美貌について記されている、いわば公式イケメンがいます。それが漢王朝の張良と、魏帝である曹叡の二人です。
この二人は唯一正史で「天姿秀出」と記されていて、また張良は婦人好女の如しのされるように、女性のような美しさであり、曹叡は髪を解くと立ったまま床に付くほど長かったそうで、この二人は現代で言うイケメンの感覚に近い容貌であると思われます。
面白い繋がり
さて公式イケメン張良と曹叡の話が出ましたが、この二人と姜維のちょっとした繋がりを。姜維は元々魏の武人でしたが、228年に諸葛亮によって行われた北伐によって諸葛亮との内通を疑われたことで行き場を失い、仕方なく蜀に降伏しました。
この際の魏の皇帝が曹叡です。まだ20歳にもなっていない若者ですが、諸葛亮の北伐に対しての対応は中々のものです。この辺はまたいずれ解説したいですね。
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