広告

斯波義統とはどんな人?信長の尾張統一に力を貸した尾張守護

2020年5月1日


はじめての三国志_ページネーション

こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

斯波義統とはどんな人(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



斯波義統、織田彦五郎に弑逆(しいぎゃく)される

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

織田信秀が死去して、うつけと評判の織田信長が家督を継ぐと尾張に動揺が走り造反者が続出します。清須織田家もこれを期に信長に反旗を翻しますが、信長は叔父の守山城主織田信光と連合してこれを撃破しました。追い詰められた織田彦五郎は、信長暗殺を計画しますが、それを知った義統は家臣を通して計画を信長にリークし、信長は難を逃れました。

 

しかしこの事はすぐに彦五郎に知られる事になり、天文二十三年(1554年)彦五郎は明確に清須織田家の敵になった義統を殺す事を決意します。

 

武衛家の斯波氏の屋敷には小規模とはいえ屈強な親衛隊が存在していました。そこで彦五郎は義統の息子斯波義銀(しばよしかね)が、多くの供を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き小守護代・坂井大膳(さかいたいぜん)、腹心の織田三位(おださんみ)河尻左馬助(かわじりさまのすけ)川原兵助(かわはらひょうすけ)らとともに守護邸に攻め入りました。

 

斯波屋敷の守りは、(うたい)何阿弥(なにあみ)という同胞衆(どうほうしゅう)、それに森刑部(ぎょうぶ)兄弟、裏口には柘植宗花(つげむねはな)という僅かな人数だけでしたが、彼らは猛奮戦して清須方の兵を斬りまくります。

 

恐れた清須方は、屋敷の四方の塀から弓衆に散々に矢を射かけさせたので、斯波方は抵抗を諦めて屋敷に火を掛け、一門、家臣、数十人が切腹して果てました。こうして、斯波義統は42年の生涯を閉じたのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

父が殺された事を知った斯波義銀は、着の身着のままで家臣団と共に那古野城(なごやじょう)の織田信長を頼ります。この事は信長の大きな追い風になりました。元々、清須織田家は織田弾正忠家の本家筋にあり、このまま事を構えるのは主殺しと取られる恐れがあります。

 

しかし、その清須織田家が尾張の国人が等しく仰ぐ守護の斯波義統を殺害した事で、織田彦五郎は主君殺しの大逆人となり、信長に清須織田家を滅ぼす大義名分が転がり込んできました。

 

信長がすかさず大逆人織田彦五郎討伐の軍を興すと、斯波家恩顧の尾張の国人衆は信長に味方し、僅か数か月の間に清須織田家は滅亡したのです。これは尾張統一を進める信長には、大きなプラスとなりました。

 

参考文献:現代語訳 信長公記

 

関連記事:信濃守護職就任と武田晴信の出家

関連記事:応仁の乱を長引かせた足軽とかいう愚連隊を解説

 

織田信長スペシャル

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-,