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この記事の目次
斯波義統、織田彦五郎に弑逆される
織田信秀が死去して、うつけと評判の織田信長が家督を継ぐと尾張に動揺が走り造反者が続出します。清須織田家もこれを期に信長に反旗を翻しますが、信長は叔父の守山城主織田信光と連合してこれを撃破しました。追い詰められた織田彦五郎は、信長暗殺を計画しますが、それを知った義統は家臣を通して計画を信長にリークし、信長は難を逃れました。
しかしこの事はすぐに彦五郎に知られる事になり、天文二十三年(1554年)彦五郎は明確に清須織田家の敵になった義統を殺す事を決意します。
武衛家の斯波氏の屋敷には小規模とはいえ屈強な親衛隊が存在していました。そこで彦五郎は義統の息子斯波義銀が、多くの供を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き小守護代・坂井大膳、腹心の織田三位、河尻左馬助、川原兵助らとともに守護邸に攻め入りました。
斯波屋敷の守りは、謡の何阿弥という同胞衆、それに森刑部兄弟、裏口には柘植宗花という僅かな人数だけでしたが、彼らは猛奮戦して清須方の兵を斬りまくります。
恐れた清須方は、屋敷の四方の塀から弓衆に散々に矢を射かけさせたので、斯波方は抵抗を諦めて屋敷に火を掛け、一門、家臣、数十人が切腹して果てました。こうして、斯波義統は42年の生涯を閉じたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
父が殺された事を知った斯波義銀は、着の身着のままで家臣団と共に那古野城の織田信長を頼ります。この事は信長の大きな追い風になりました。元々、清須織田家は織田弾正忠家の本家筋にあり、このまま事を構えるのは主殺しと取られる恐れがあります。
しかし、その清須織田家が尾張の国人が等しく仰ぐ守護の斯波義統を殺害した事で、織田彦五郎は主君殺しの大逆人となり、信長に清須織田家を滅ぼす大義名分が転がり込んできました。
信長がすかさず大逆人織田彦五郎討伐の軍を興すと、斯波家恩顧の尾張の国人衆は信長に味方し、僅か数か月の間に清須織田家は滅亡したのです。これは尾張統一を進める信長には、大きなプラスとなりました。
参考文献:現代語訳 信長公記
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