【麒麟がくる】織田彦五郎とはどんな人?主君を殺し滅亡した尾張守護代

2020年3月1日


 

 
 

斎藤道三と戦をする織田信秀(加納口の戦い)

 

麒麟(きりん)がくる第7話では、斎藤利政(さいとうとしまさ)道三(どうさん))がかつて織田信秀(おだのぶひで)に奪われた大柿(おおがき)城を奪還(だっかん)します。

織田彦五郎(織田信友)

 

当初は優勢だった信秀ですが、同族の織田彦五郎(おだひこごろう)本拠地(ほんきょち)猿渡城(さるわたりじょう)を攻撃され、城を(あきら)めるしかなくなったのです。北に斎藤、東に今川、内部に織田彦五郎と、にっちもさっちもいかなくなった織田信秀は、宿敵斎藤利政と縁組(えんぐみ)により同盟を結ぼうとするのですが、その切っ掛けになった織田彦五郎とは、何者なのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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尾張下四郡の守護代清須織田家に生まれる

 

織田彦五郎は通称(つうしょう)で本名は織田信友(おだのぶとも)と言い、尾張下四郡(おわりしもよんぐん)を支配する清須織田家(きよすおだけ)に生まれました。本来織田家は守護の斯波氏(しばし)代官(だいかん)でしたが、戦国の世で主君の斯波氏が弱体化、尾張は尾張(かみ)四郡を支配する岩倉織田家(いわくらおだけ)と、(しも)四郡を支配する清須(きよす)織田家に分裂していました。清須織田家は、傀儡(かいらい)守護(しゅご)として斯波義統(しばよしむね)を奉じています。

 

同年小録(書物・書類)

 

織田彦五郎は、織田達勝(おだたつかつ)の後を継いで守護代になりますが、尾張下四郡の実質的な支配者は、すでに清須織田家でもなくなっていました。尾張の実権は良港の津島(つしま)熱田(あつた)を抑えた配下の清須三奉行(さんぶぎょう)の一人、織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)の織田信秀に移っていたのです。

 

斎藤道三と戦をする織田信秀(加納口の戦い)

 

先代の当主の織田達勝は、上り調子の織田信秀に協力していましたが、信秀が加納口(かのうぐち)の戦い、小豆坂(あずきさか)の戦いで相次(あいつ)いで敗れ、さらに、斎藤氏に攻められた大柿城の救援に向かうと織田彦五郎は重臣坂井大膳(さかいたいぜん)の進言に従い信秀不在の猿渡城を攻めたのです。

 

 
 

信秀側の平手政秀の周旋で一度は和睦

平手政秀(麒麟がくる)

 

織田彦五郎は、坂井大膳、坂井甚介(さかいじんすけ)川尻与一(かわじりよいち)のような名将を押し立てて猿渡城を攻撃、帰還した信秀はこれを防ぎますが、戦いは一進一退になります。信秀は平手政秀(ひらてまさひで)を交渉役に立て、翌年天文(てんもん)十七年(1548年)の秋に和睦(わぼく)します。

 

織田信長

 

この後、清須織田家と織田弾正忠家の関係は小康状態になりますが、織田信秀が天文二十二年に死去して、うつけと評判の織田信長(おだのぶなが)家督(かとく)を継ぐと、彦五郎は信長の弟の織田信勝(おだのぶかつ)を支持し、信長に戦いを挑む事になります。

 

麒麟がくる

 

萱津(あしづ)の戦いで敗北坂井甚介を失う

今川義元

 

信長が家督を継ぐと、早速尾張に動揺が走ります。織田信秀に従っていた鳴海城主(なるみじょうしゅ)山口教継(やまぐちのりつぐ)教吉父子(のりよしふし)駿河(するが)今川義元(いまがわよしもと)に寝返り、信長と教吉の間で赤塚(あかつか)の戦いが勃発したのです。信長は800程の軍勢を率いて戦いますが、痛み分けになり、即日(そくじつ)那古野城(なごやじょう)に引き上げます。これを見て、清州の坂井大膳が同僚の坂井甚介、河尻与一、織田三位(おださんみ)(はか)り、信長サイドの松葉城(まつばじょう)深田城(ふかだじょう)を攻略、織田伊賀守(おだいがのかみ)織田信次(おだのぶつぐ)を人質にしました。

 

なんだか織田彦五郎の影が薄いですが、この頃には清須織田家の実権は坂井大膳に握られていたようです。

馬に乗って戦う若き織田信長

 

報告を聴いた信長は(ただ)ちに那古野城(なごやじょう)から出陣すると、守山城(もりやまじょう)から叔父の織田信光(おだのぶみつ)が援軍にやってきます。信長は兵力を3方向に分け、自らは信光と一手になって庄内川(しょうないがわ)を越し、海萱津(うみあしづ)へと移動、午前8時頃に戦端が切られ激戦の末、清州方の重臣、坂井甚介が討ち死にします。その首は、中条家忠(なかじょういえただ)柴田勝家(しばたかついえ)が二人がかりで取ったそうなので、坂井は相当な(ごう)の者だったかも知れません。

 

50名余りの手勢を失った清須方は、松葉城と深田城に籠城(ろうじょう)しますが、ここも数時間の激戦で陥落(かんらく)し、清須方の軍勢は城を明け渡し逃げてゆきます。勢いに乗った信長は、そのまま清須城下の田畑を()ぎ払い、悠々(ゆうゆう)と引き上げていきました。

 

守護斯波義統を殺害し窮地に陥る

 

その後、織田彦五郎は信長を暗殺しようとしますが、守護の斯波義統の部下から計画が漏れて失敗します。清須織田家が傀儡(かいらい)としていた斯波義統は、織田彦五郎が今川義元と通じて、尾張に今川の勢力を引き込んでいると嫌悪(けんお)し、密かに信長に通じようとしていました。

 

これを知った彦五郎は、天文二十三年(1554年)重臣の坂井大膳と謀り、斯波氏の家臣が(あと)取りの斯波義銀(よしかね)に従い城外に出た隙を突いて、城内に残った斯波義統を殺害します。

 

天下布武を唱える織田信長

 

しかし、これは最悪の決断でした。父が殺された事を知った義銀は信長を頼り逃亡。信長はこのチャンスを逃がさず義銀を保護し、織田彦五郎を主君殺しの大逆人と罵倒(ばとう)して、討伐の軍を起こすのです。

 

柴田勝家に安食(あじき)で大敗

柴田勝家

 

天文二十三年、7月18日、その頃、織田信勝に属していた柴田勝家が信長に合流して清須に出陣します。しかし、どうして信長と利害が対立する柴田勝家が清須に攻めこんだのでしょうか?これは、どうやら織田信勝が(とむら)い合戦の主導権を信長に握られるのを恐れた為と推測されます。

 

早い話が、例え傀儡でも主君を殺すのはこの段階ではまずかったんですね。

 

柴田勝家は長槍部隊を率いて、三王口(さんのうぐち)、安食と攻略、清須勢は請願寺(せいがんじ)前で持ちこたえようとするも、槍が短いので太刀打ちできず、境内(けいだい)に侵入され、川尻与一、織田三位が討ち死にしました。清須織田家を支えてきた重臣は、これで坂井大膳だけになります。

 

織田信光に騙されて清須城を失い自害

江戸城

 

たった一人になった坂井大膳は、これではやっていけぬと守山城の織田信光に接近し清須城に入り、織田彦五郎と共同で守護代になってくれないかと打診(だしん)します。信光は二つ返事で承諾し、決して約束を(たが)えないと誓約書(せいやくしょ)を出し、清須城の南櫓(みなみやぐら)に入りますが、同時に信長にも取引を持ち掛けていました。

 

「尾張下四郡の半分を与えると約束してくれるなら、織田彦五郎を討って差し上げよう」

 

もちろん、信長は大喜びで了承します。

 

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

反逆の決意をした織田信光は、坂井大膳を(だま)()ちにしようと待ち(かま)えますが、大膳は異様な雰囲気を感じ取り駿河(するが)に逃亡。それを知った信光は、清須城にいた彦五郎を主君殺しと(なじ)り、追い詰めます。もう逃げられないと悟った彦五郎は、大人しく腹を切り死亡しました。この時、清須織田家は滅亡したのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

織田彦五郎は清須織田家の当主ながら、その実権は小守護代の坂井大膳に握られた傀儡だったようです。確かに史料を見ても、織田彦五郎の名前はあまり出てきません。でも、一応、守護代家のトップに居る以上、一切私は関係ありませんとはいかないでしょう。最終的に詰め腹を切らされたのは仕方ないでしょうね。

 

参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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