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この記事の目次
荊州に行くも劉表からは認められず
初平3年(192年)に董卓は王允と呂布により殺害。この時に王粲の恩人の蔡邕も董卓一派ということで処刑されました。
間もなく董卓の残党である李傕・郭汜が長安に攻め込み王允を殺害。長安は混乱に陥ります。そこで王粲は荊州の劉表を頼ります。祖父の縁故を頼ったのでした。
ところが、劉表はヒョロヒョロした王粲を見て「こいつ、大丈夫かな?」と思ったらしく蔡邕のようには認めてくれませんでした。劉表のせいで王粲は不遇の荊州時代を過ごすことになります。
抜群の記憶力
王粲は記憶力が良かったらしく1度見た内容は忘れない体質でした。ある日、友人と一緒に歩いていると道端に石碑がありました。
「あなたは、この石碑の文章を暗記出来ますか?」と友人が尋ねると、王粲は「出来ますよ」とあっさりと答えます。
そこで王粲は後ろを向いてしゃべります。不思議なことに、しゃべった内容は1文字も間違えていませんでした。また、こんな話も残っています。王粲が囲碁の対局を見ていた時でした。何があったのか分かりませんが、碁盤が滅茶苦茶になる事件が起きます。
私の推測ですが負けそうになった人が碁盤をひっくり返したのでしょう。すると王粲は横から出てきて碁石を元通りの位置に戻しました。信じられないと思ったプレイヤーたちは、2度目の実験を行ってみると本当であることが分かりました。王粲はこの記憶力と蔡邕からもらった書籍をもとに、戦乱で失われた書籍の復興を行いました。
劉琮に降伏をすすめる
建安13年(208年)に劉表はこの世を去りました。後を継いだのは劉琮でした。ところがすぐに曹操が荊州制圧のために南下してきます。この時に王粲は劉琮を説得しました。詳細は正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として掲載している『文士伝』に記されています。
王粲は劉琮に対して自分を曹操と比較してどう思うか尋ねます。劉琮は「とても及ばない」と答えました。そこで王粲は降伏して一族繁栄を保つことをすすめます。中国では祖先祭祀を絶やすことが、悪いことになっていますので劉琮は王粲の意見を入れて降伏します。
どの時代の書物にも出てくる三流小説のような話です。案の定、裴松之は『文士伝』の内容そのものは信じていません。ただし、王粲が説得をしたことは陳寿も記載しているので、この件に関しては間違いないようです。
建安七子になるも早死にする
王粲は曹操から可愛がられました。王粲は博学であったことから儀式などをする際は常に、曹操から質問を受けました。
また、詩にも優れていたことから孔融・陳琳・徐幹・応瑒・劉禎・阮瑀と並んで建安七子と呼ばれました。
劉表のもとでは報われませんでしたが、曹操のもとで花が開いたのでした。遅咲きの人生でした。しかし、それも長続きしません。建安22年(217年)に呉(222年~280年)の遠征に従軍しますが、その帰路に病気になり亡くなりました。享年41歳。従来のひ弱な体質が仇になったのです。
三国志ライター 晃の独り言
王粲の息子2人は悲劇的な運命をたどります。建安24年(219年)に魏諷が起こした反乱に加担したので連座して処刑されたのです。父が苦労して成し遂げた事業を一発で粉砕したのでした。
それどころか王粲の直系まで絶えたのでした。バカ息子たちとは、こういうのを指すのでしょうか?王粲が残した書物は親族である王業が受け継いだそうです。書物が残っただけでも私は幸いと思います・・・・・・
※参考文献
・野沢達昌「後漢末荊州学派の研究」(『立正大学文学部論叢』41 1972年)
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