闇に葬られた?後漢書の執筆者 范曄が隠した荀彧と董卓、宦官の関係


はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

劉備の黒歴史

 

人の生涯には隠し事が多くあります。読者の皆様も家族に言えないことは、山のようにあるはずです。それは歴史上の人物にも言えたこと。特に有名な人ほど綺麗な人生であり、また悲劇的に描かれるものです。

荀彧

 

今回は曹操(そうそう)挙兵当時から仕えて謎の死を遂げた軍師の荀彧(じゅんいく)の真実の姿を描きます。

 

自称・皇帝
当記事は、
「董卓 宦官」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 


2つの荀彧像

正史三国志_書類

 

荀彧を研究する際によく使われる史料は蜀(221年~263年)末期から西晋(せいしん
)
(265年~316年)初期の陳寿(ちんじゅ
)
が執筆した正史『三国志』と東晋(とうしん)(317年~420年)の袁宏(えん こう
)
が執筆した『後漢紀(ごかんき)』、劉宋(りゅうそう)(420年~479年)の范曄(はん よう
)
が執筆した『後漢書(ごかんじょ
)
』です。

 

荀彧

 

1番有名なのは正史『三国志』と『後漢書』であり、よく使われます。

 

荀彧

 

ただし、2つとも荀彧の人物像が全く違っています。正史『三国志』は曹操配下として、『後漢書』は後漢(25年~220年)の忠臣として描かれており、その姿は後世の『三国志演義』やドラマ・マンガ・ゲームにも影響を与えました。

鬱になる荀彧

 

『後漢書』の執筆者である范曄は意図的に悲劇のヒーロー荀彧を作ったようです。


一致しない正史『三国志』と『後漢書』

荀彧(はじめての三国志)

 

正史『三国志』によると荀彧は永漢(えいかん)元年(189年)に役人に任命されて、守宮令(しゅきゅうれい)という役職に就きました。しかし董卓の乱が起きたので地方官になることを自分から願い出て故郷に帰ります。

 

荀彧

 

不思議なことに後漢書では荀彧の守宮令就任の話はありません。「ただの書き漏れでは?」と思う読者の皆様もいるかもしれませんが、これが范曄の意図的工作でした。


守宮令とは?

献帝(はてな)

 

まず守宮令について解説します。守宮令とは宮中の紙・筆・墨を管轄する役職であり宦官が就任していました。後漢第9~10代皇帝以前は宦官(かんがん)ではなく士人(しじん)(知識人)の役職でしたが、第11代桓帝(かんてい
)
から宦官が就任するようになったのです。

 

宦官を倒す袁紹

 

ところが袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)が宦官大虐殺を行って以降、再び士人の手に戻ったのです。上記のことが正しければ荀彧は宦官から士人の役職を取り戻したとして、『後漢書』に書いても問題ありません。なぜ書くことが出来ないのでしょうか?


宦官の親族だったことは認めません!

張譲(宦官)

 

1つは荀彧が宦官と親族だったからです。荀彧は宦官の唐衡(とうこう)の娘を娶っていました。娘といっても宦官に子孫繁栄の力は無いので、養子に決まっています。

 

荀勗(じゅんきょく)

 

正史『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)はパトロンに荀彧の子孫である荀勗(じゅんきょく)がいたので直接書かずに、官職名だけ書いて読者に間接的に伝えたのです。

 

裴松之(歴史作家)

 

ただし、正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)や『後漢書』の執筆者である范曄は、陳寿が生きた時代から約150年以上経過しています。

 

歴史書をつくる裴松之

 

陳寿の微妙な忖度を理解することは難しかったと思われます。裴松之に至っては荀彧が宦官と親族関係にあったことを否定。范曄は荀彧が守宮令に就任したことを『後漢書』から全く書きません。

【次のページに続きます】

次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 騎馬兵にあこがれる歩兵
  2. 孔明と黄月英
  3. バチバチやりあう孔明と曹真
  4. 曹休と曹丕を可愛がる曹操
  5. 袁術 袁紹
  6. 三国志時代のひざまくら

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

3冊同時発売

“三国志人物事典"

“ながら三国志音声コンテンツ"

ASMR

“近代オリンピック




PAGE TOP