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この記事の目次
義昭に愛想を尽かされる
八方ふさがりの足利義昭は、どうしても義景に上洛を頼む必要があり、非公式ながら義景の館を訪問し管領並みの格式で遇して、機嫌を取ります。永禄11年(1568年)3月8日、義昭により、義景の生母広徳院が二位の尼に叙せられます。しかし義景の腰は重く、さらに折悪しく溺愛していた嫡男の阿君丸が死んで悲しみの淵に沈み、上洛どころではなくなりました。
(ダメだ、こいつ、、ここにいたら、ジジイになっても上洛できんぞ・・)
しびれを切らした義昭は、この頃、美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼ろうとします。あわてて、義景は止めようとしますが義昭の決意は固く、滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して一乗谷を去りました。結果、織田信長が上洛を果たしてしまいますので、義景は大きな魚を逃した事になります。
織田信長の上洛命令を無視
永禄11年9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たします。そして、信長は将軍義昭の命令として、義景に二度に渡り上洛を命じますが、なんと義景はこれを拒否しました。
理由は色々ありますが、大きいのは織田家が朝倉家より格下の守護代の又代に過ぎないという事もあります。さらに、信長の態度も高圧的であり、(なんで、尾張のイモに頭を下げねばならんのだ)という反発が義景にはあったようです。
しかし、これは悔いても追いつかない失敗でした。実質はどうあれ、義景は足利将軍の命令に背いたのですから信長に討伐の口実を与えたようなものだったのです。
明智光秀と木下秀吉に追撃を阻まれる
永禄13年(1570年)織田信長は義景に叛意ありとして、越前出兵を開始します。織田・徳川連合軍は連戦連勝、天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城しました。これに対し、義景は後詰の軍として出陣しますが、途中一乗谷で騒動が起きたとして引き返しています。
すわ!このまま一乗谷で籠城戦か?と思いきや、ここで信長の妹婿の浅井長政が裏切り織田軍の背後を襲いました。窮地に陥った信長は殿を木下秀吉と明智光秀に任せて京都に退却します。
一気にチャンス到来の義景は退却する織田軍を追わせますが、秀吉と光秀の巧みな退却戦に対応できず、信長含め、多くの有力部将を取り逃がします。なにからなにまで鈍くさい義景は、またしてもチャンスを見逃すのです。
ああ、もったいない、なんと勿体ない・・
姉川の戦いでも全力出さず・・
元亀元年(1570年)6月28日、逆襲の信長は、織田・徳川連合軍で、朝倉・浅井連合軍と姉川で激突しました。しかし、この時の朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健で兵力も8000人に過ぎませんでした。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗戦。戦いは朝倉・浅井連合軍の敗戦に終わりました。なんで、こう本気を出さないんですかね、義景・・
しかし、全体的に嫌われている織田信長は、浅井・朝倉だけに構っていられません。三好三人衆・石山本願寺と戦う為に、今度は摂津国に出兵します。
このチャンスに義景は自ら出陣、浅井軍と共同し織田領の近江坂本に攻め込み、織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込みます。さらに大津で街中を焼き払います。しかし信長が軍を近江に引き返したので、義景は比叡山に立て籠もって織田軍と対峙。織田と朝倉は小競り合いを続けますが、12月に信長と義景は朝廷の仲介で和睦します。
その後、信長は羽柴秀吉に命じて、近江・越前の街道を封鎖して義景を経済封鎖、朝倉義景は敵対していた本願寺顕如と和睦し婚姻関係を結び、信長への対決姿勢を強めます。
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