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この記事の目次
朝倉義景、浅井長政を救援できず
元亀3年(1572年)7月、信長は浅井家の本拠、小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備し始めます。窮地の浅井氏は朝倉氏に長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出撃してもらえれば、織田軍を討ち果たせると嘘の情報を流し、義景はこれを信じて浅井支援に赴きます。
しかし義景は出兵はしたものの、積極的な攻勢には出られず織田軍から散発的な攻撃を受けると前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返り身動きが取れずグダグダになります。さらに、義景は信長から決戦の申し込みを受けて無視、家臣の信用をさらに失いました。結局、砦は完成し信長は秀吉に砦を任せて横山城に引っ込んでしまいました。
義景、信玄ちゃんに叱られる
元亀3年10月、甲斐の武田信玄が西上作戦を開始、遠江・三河方面へ侵攻し徳川領を奪い取っていきます。この出兵の際、信玄は義景に対しても協力を求めました。
慌てた信長が岐阜に撤退して信玄に備えると、これはチャンスと義景は浅井勢と共同で打って出ますが、虎御前山砦の羽柴隊に敗北して進む事が出来ません。
さらに、12月3日、義景は部下の疲労と積雪を理由に越前へと独断で撤退。そのため信玄から「もっと真面目にやれよ!」と激しく手紙で叱られています。信玄はなおも、ぶつくさ言いつつ、義景の出馬を要求しますが、義景は応じずとうとう4月12日、武田信玄は陣中で病死。武田軍は甲斐に引き揚げました。
後から、思えば、この武田信玄との同盟が義景が動ける最期のチャンスでした。武田信玄が消えた信長は大喜びし、いよいよ朝倉滅亡に王手を打ちます。
浅井を救援に向かうも家臣はついて来ず
天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて浅井攻めを開始します。これに対して朝倉義景も軍を率いて出陣しようとしますが、これまで残念なヘタレぶりを見せつけてきた義景に家臣たちは冷淡でした。
なんかー疲れてるんでー出陣できませーん!
こんなふざけた理由で朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否します。このため義景は山崎吉家、河井宗清らを招集して重臣抜きで2万の軍勢を率いて出陣します。
8月12日、信長は暴風雨を突いて、朝倉方の砦である大嶽砦を自ら攻めました。信長の奇襲により朝倉軍は敗退して砦から追われ、8月13日には丁野山砦が落ち義景は長政と連携を取り合うことが不可能になり義景はやむなく、越前への撤兵を決断します。
一乗谷炎上
ところが信長は義景の撤退を予測しており、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受け朝敗退し柳瀬に逃走しました。しかし、信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受け、義景自身は疋壇城に逃げ込み、さらに逃走して一乗谷を目指しますが、この頃には配下がボロボロ逃げ出し、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみでした。
8月15日、義景は一乗谷に惨めに帰還。ところが朝倉軍の壊滅を知り一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走。義景が出陣命令を出しても朝倉景鏡以外は出陣しませんでした。
もう、どうにもならなくなった義景は自害しようとしますが、近臣に止められます。そして、義景は、朝倉景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄して東雲寺に逃れました。
8月18日、織田軍は信長を先頭に柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み居館や神社仏閣などを放火、放火は3日も続き一乗谷は灰になります。
義景の人物と最後
従兄弟の朝倉景鏡の勧めで東雲寺から賢松寺に逃れていた義景でしたが、8月20日早朝、最後まで頼っていた景鏡が織田信長と通じて裏切り賢松寺を200騎で襲撃したのです。ここに至って、気力も衰えた義景は自害して果てます。41歳でした。京都に近く、豊かな越前を保持しながら、何度もチャンスを見逃した義景は、最後には、一門にさえ裏切られ孤独な最期を遂げたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
優柔不断だった朝倉義景には、いちかばちか、己の信じた事に全力を投入するという事が無かったように感じます。どんなチャンスにも、まったくリスクがない事はあり得ないのですが、どうも義景は、完全に安全なチャンスを求め過ぎたようで、そんな事はあるはずもなく、悔いても追いつかない状況に我が身を追い込んだのです。
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